　二百十日（にひゃくとおか）、という夏目漱（なつめそう）石（せき）の小説（しょうせつ）がある。二百十日（にひゃくとおか）は時期（じき）を表（あらわ）していて、九月（くがつ）一日（ついたち）ごろという意味（いみ）だそうだ。男性（だんせい）の二人（ふたり）組（ぐみ）が阿蘇山（あそさん）に登（のぼ）ろうとして、挫折（ざせつ）する話（はなし）である。

　地味（じみ）な挫折（ざせつ）話（ばなし）だから、どうにも不人気（ふにんき）な印象（いんしょう）がある。山（やま）もオチも意味（いみ）もない話（はなし）は軽（かる）く見（み）られがちだから、これは仕方（しかた）がないだろう。二人（ふたり）が「金持（かねも）ちが、めちゃくちゃな社会（しゃかい）を作（つく）ろうとしている。そんなことは許（ゆる）しちゃいけない！」といった会話（かいわ）をして小説（しょうせつ）は終（お）わる。負（ま）け犬（いぬ）の遠（とお）吠（ぼ）えに聞（き）こえなくもない。

　しかし、かの国（くに）の大統領選（だいとうりょうせん）を見（み）ると、漱石（そうせき）先生（せんせい）の小説（しょうせつ）にも一理（いちり）あるなぁと思（おも）うのだ。子（こ）どもじみた金持（かねも）ちの企業家（きぎょうか）が大統領選（だいとうりょうせん）に肩入（かたい）れをして、その結果（けっか）が例（れい）の関税（かんぜい）騒動（そうどう）である。経済（けいざい）成（せい）長（ちょう）率（りつ）への、世界（せかい）的（てき）な下押（したお）し圧力（あつりょく）が見込（みこ）まれている。

　要（よう）するに不景気（ふけいき）になるわけで、私たちゲーム機（き）も値段（ねだん）が上（あ）がるかもしれない。私たちが買（か）われなくなって、活動（かつどう）の場（ば）が狭（せば）まったら嫌（いや）だなぁ。

「なんだろ、プロさんが黙（だま）って歩（ある）いてるけど。箱（はこ）ちゃん、どう思（おも）う？」

「きっと難（むずか）しいことを考（かんが）えてるんだよ。見守（みまも）っててあげよ、ツーちゃん」

「……聞（き）こえてるから。変（へん）に気（き）を遣（つか）わなくてもいいよ、もう」

　引（ひ）き続（つづ）き、私たち三人（さんにん）は山（やま）を登（のぼ）っている。身体（からだ）が小（ちい）さいツーや、海外（かいがい）出身（しゅっしん）のⅩ（エックス）箱（ばこ）と違（ちが）って、日本（にほん）の山（やま）登（のぼ）りに私は慣（な）れていた。古（ふる）くはファミコン一族（いちぞく）との売上（うりあげ）争（あらそ）いを繰（く）り広（ひろ）げてきたのが、プレステ一族（いちぞく）なのである。この程度（ていど）の上（のぼ）り坂（ざか）に負（ま）ける私ではなくて、先頭（せんとう）に立（た）って後（うし）ろの二人（ふたり）をリードしていた。

「でも、Ⅹ（エックス）箱（ばこ）も日本（にほん）語（ご）が上手（うま）くなったよね。海外（かいがい）ゲームの字幕（じまく）だって、昔（むかし）は酷（ひど）い翻訳（ほんやく）だったのにさ」

「それはマルチ化（か）っていうか、違（ちが）うゲーム機（き）で同（おな）じソフトを遊（あそ）べるようになったからかなぁ。今（いま）はもう、海外（かいがい）ゲームを『洋（よう）ゲー』なんて言（い）わないもんね。マルチプラットフォーム方針（ほうしん）のおかげで、どのゲーム機（き）でも人気（にんき）ソフトを遊（あそ）べるようになったのはいいことじゃないかな」

　そうだなぁ。昔（むかし）はファミコンとプレステで、同（おな）じゲームソフトを遊（あそ）べることなんか無（な）かった。もうゲーム機（き）同士（どうし）で争（あらそ）ってる場合（ばあい）じゃないのだ。共存（きょうぞん）共栄（きょうえい）を目指（めざ）さないとね。

「そう言（い）えばさー。箱（はこ）ちゃんのところ、妹分（いもうとぶん）がデビューするんでしょ？　私と同（おな）じ、携帯（けいたい）機（き）だよねー」

「ああ、うん。マイクロソフトが別（べつ）会社（がいしゃ）と共同（きょうどう）開発（かいはつ）してて。順調（じゅんちょう）にいけば今年（ことし）中（じゅう）に発売（デビュー）できるらしいけど」

「楽（たの）しみだなー、早（はや）く友（とも）だちになりたい。私が抽選（ちゅうせん）販売（はんばい）でしか出回（でまわ）らない間（あいだ）に、箱（はこ）ちゃんの妹（いもうと）が大（だい）人気（にんき）になって、大差（たいさ）を付（つ）けられるかも」

「いや、ないない。ツーちゃん、めっちゃ売（う）れてるから。心配（しんぱい）しなくてもいいよ」

　ツーとⅩ（エックス）箱（ばこ）が携帯（けいたい）ゲーム機（き）の話（はなし）で盛（も）り上（あ）がってて、ちょっと羨（うらや）ましい。私のところも昔（むかし）は、Ｐ（ピー）Ｓ（エス）Ｐ（ピー）とかヴィータとか存在（そんざい）したんだけどなぁ。スマホ時代（じだい）の今（いま）は、私のような据（す）え置（お）き機（き）が時代（じだい）遅（おく）れになってるんじゃないかと、どうしても思（おも）ってしまう。

「あー、プロさん、背中（せなか）が寂（さび）しそー。元気（げんき）づけてあげるー」

「いいね。私も一緒（いっしょ）に元気（げんき）づけるよー」

　変（へん）に目聡（めざと）い二人（ふたり）が、駆（か）け寄（よ）ってきて脇（わき）から私にハグしてくる。ツーはさっきまで疲（つか）れた様子（ようす）だったのに、この溌剌（はつらつ）さは若（わか）さゆえなのか。暑苦（あつくる）しい、と言（い）いたいところだけど実際（じっさい）は、早朝（そうちょう）の山（やま）の空気（くうき）が肌寒（はだざむ）いくらいで。だから私は、二人（ふたり）を拒否（きょひ）しなかった。

「もう……山頂（さんちょう）で動（うご）けなくなっても知（し）らないからね」

　そう言（い）いながら、二人（ふたり）の体温（たいおん）を感（かん）じる。ブイチューバーならわかるだろうけど、私たちのような配信業（はいしんぎょう）というか仕事（しごと）は、基本的（きほんてき）に個人（こじん）活動（かつどう）だ。言（い）ってしまえば皆（みな）が競争（きょうそう）相手（あいて）で、皆（みな）がライバルである。ゲーム機（き）だって古（ふる）くはファミコン以前（いぜん）から存在（そんざい）していて、いくつもの機械（きかい）が消（き）え去（さ）っていった。

「そのときはプロさんに介抱（かいほう）してもらうー。元々（もともと）、山（やま）登（のぼ）りはプロさんの提案（ていあん）だしー」

「プロちゃんは日本（にほん）を代表（だいひょう）するゲーム機（き）だもん。これからも私たちを導（みちび）いてね」

　ツーが甘（あま）えてきて、Ⅹ（エックス）箱（ばこ）が私を持（も）ち上（あ）げてくる。そんなこともないけどねぇ。日本（にほん）国内（こくない）では人気（にんき）でツーに負（ま）けてるし、すぐにプレステ６（シックス）に取（と）って代（か）わられるのではないか。それはそれで構（かま）わない。私が一人（ひとり）で無理（むり）に頑張（がんば）る必（ひつ）要（よう）が、ないということだから。

　時代（じだい）と共（とも）に、文化（ぶんか）は変（か）わる。世界（せかい）の政治（せいじ）も、政府（せいふ）の方針（ほうしん）も変（か）わる。でもゲーム機（き）という道具（ツール）は無（な）くならないのではないか。私たちは作品（ゲーム）を通（とお）して、本当（ほんとう）に大切（たいせつ）な価値観（かちかん）を伝（つた）えていけるかもしれない。私を両（りょう）脇（わき）からハグしてくれている仲間（なかま）と一緒（いっしょ）に、そういったことができたらいいなぁと思（おも）う。

　土（つち）の重（かさ）なりがあって、木々（きぎ）があって森林（しんりん）がある。そういった諸々（もろもろ）を内包（ないほう）しているのが山（やま）だ。空気（くうき）には湿（しめ）り気（け）があって、これは土（つち）の下（した）に湧（わ）き水（みず）があるからだろうか。命（いのち）には水（みず）が必（ひつ）要（よう）なのだと実感（じっかん）する。

　木（き）には葉（は）が生（お）い茂（しげ）っていて。葉（は）は笹（ささ）のように細（ほそ）いものや、もっと大（おお）きくて薄（うす）いもの、小（ちい）さいけれど厚（あつ）くて濃（こ）い緑色（みどりいろ）のものなどがあった。陽（ひ）の光（ひかり）に透（す）かして見（み）れば葉脈（ようみゃく）があって、人間（にんげん）の血管（けっかん）と同（おな）じように、生（い）きている証（あかし）があった。

　都会（とかい）で生活（せいかつ）してると忘（わす）れがちだけど、山（やま）の中（なか）はビルと違（ちが）って、エスカレーターもエレベーターもない。登（のぼ）るためには歩（ある）くしかなくて、それは人（ひと）も動物（どうぶつ）も同（おな）じである。鳥（とり）は別（べつ）だけど、それでも山頂（さんちょう）に登（のぼ）るためには、一回（いっかい）一回（いっかい）の羽（は）ばたきが必（ひつ）要（よう）なのだ。

　動物（どうぶつ）も人間（にんげん）も、生（い）きている。一歩（いっぽ）一歩（いっぽ）の積（つ）み重（かさ）ねがあって、それは一日（いちにち）一日（いちにち）の積（つ）み重（かさ）ねが人（じん）生（せい）を形作（かたちづく）っているのと同（おな）じで。努力（どりょく）を積（つ）み重（かさ）ねた先（さき）に見（み）える光景（こうけい）があって、でも努力（どりょく）が報（むく）われるとは限（かぎ）らなくて。だから私たちは山（やま）に登（のぼ）るのだろう。歩（ある）き続（つづ）ければ、絶対（ぜったい）に山頂（さんちょう）へは辿（たど）り着（つ）けるのだから。

　実際（じっさい）は天候（てんこう）の問題（もんだい）もあるから、確実（かくじつ）に登（のぼ）れるとは限（かぎ）らないし、景色（けしき）の保証（ほしょう）もないけれど。今（こん）回（かい）の私たちは晴天（せいてん）に恵（めぐ）まれていた。ツーは息（いき）も絶（た）え絶（だ）えだったけど、Ⅹ（エックス）箱（ばこ）に手（て）を引（ひ）かれて、今（いま）の私たちは山頂（さんちょう）へと到達（とうたつ）して下界（げかい）を眺（なが）めている。

「来（き）て良（よ）かったでしょう。ツーは大丈夫（だいじょうぶ）？　途中（とちゅう）でハグしてきたり、無駄（むだ）な動（うご）きをするから余（よ）計（けい）に疲（つか）れるのよ」

　ちょっと私は心配（しんぱい）していた。体力（たいりょく）のない彼女（かのじょ）を山（やま）に連（つ）れてきたのは間違（まちが）いだっただろうか。

「大丈夫（だいじょうぶ）かって言（い）ったら……たぶん明日（あした）は筋肉痛（きんにくつう）だけど。でも、来（き）て良（よ）かったー。こんな体験（たいけん）、あんまりしたことなかったしー」

「山（やま）の上（うえ）からの光景（こうけい）って、なんで、こんなに感動的（かんどうてき）なんだろうねー。言葉（ことば）に表（あらわ）せないよ」

　ツーが喜（よろこ）んでくれてて、内心（ないしん）、ホッとする。Ⅹ（エックス）箱（ばこ）は感慨（かんがい）深（ぶか）そうに、景色（けしき）に見入（みい）っていた。

　感動（かんどう）する理由（りゆう）は人（ひと）それぞれだから、一概（いちがい）には言（い）えないだろう。Ⅹ（エックス）箱（ばこ）は努力（どりょく）が報（むく）われたような達成（たっせい）感（かん）に浸（ひた）っているのかもしれない。でも私は────この三人（さんにん）で今（いま）の光景（こうけい）を共有（シェア）できたことが、最高（さいこう）に嬉（うれ）しかった。

　ライバルと作品（ゲーム）の売（う）り上（あ）げを競（きそ）い合（あ）うだけの、ギスギスした関係（かんけい）。昔（むかし）のゲーム機（き）同士（どうし）はそうやって争（あらそ）ってきたんだろうけど、少（すく）なくとも私は嫌（いや）だった。仮（かり）に未来（みらい）が険（けわ）しい上（のぼ）り坂（ざか）なら、この三人（さんにん）で登（のぼ）りたいと私は思（おも）う。

　好（この）ましい未来（みらい）へ手（て）を伸（の）ばす。そこはきっと一人（ひとり）では行（い）けなくて、仲間（なかま）に支（ささ）えられないと辿（たど）り着（つ）けない場所（ばしょ）だ。今日（きょう）の登（と）山（ざん）だって結局（けっきょく）、私は一人（ひとり）では行（い）きたくなかった。二人（ふたり）が私を支（ささ）えてくれて、だから辿（たど）り着（つ）けたのだ。これからも仲良（なかよ）く、そうやっていけたらいいなぁ。