第27話「みずきの迷い」

 目黒さんとの話から数日が過ぎた。


 みずきは万年筆の限界について理解したつもりだったが、心の奥ではまだ複雑な気持ちが渦巻いていた。


 朝の授業中、みずきはぼんやりと窓の外を眺めていた。田辺先生の代わりに来てくださった鴨川かもがわ先生が算術を教えているが、どうしても集中できない。


 田辺先生からお手紙が届いたのは昨日のことだった。


『皆さんからのお心遣こころづかい、本当にありがとうございました。母の具合は少しずつですが回復しております。皆さんのお手紙が、何よりの薬になりました』


 そんな内容だった。みんなの手紙が役に立ったと知って、みずきは嬉しかった。でも、同時に複雑な気持ちにもなった。


 もし万年筆を使っていたら、もっと早く、もっと確実にお母様を治すことができたのではないだろうか。


 そんなことを考えている自分が嫌だった。


 昼休みになると、みずきは一人で校庭の隅に座った。いつものように小瑠璃こるり恵奈えなと一緒にいる気分になれなかった。


「みずきちゃん」


 恵奈が心配そうに近づいてきた。


「どうしたの?元気がないみたいだけど」


「大丈夫よ」


 みずきが答えたが、その声には元気がなかった。


「田辺先生のこと?」


 小瑠璃も一緒に座った。


「先生からお手紙をいただいて、良かったじゃありませんの」


「ええ、そうね」


 みずきが頷いたが、表情は晴れなかった。


 実は、みずきは昨夜から万年筆を見つめ続けていた。机の引き出しから取り出して、何度も手に取った。でも、結局何もしなかった。


 目黒さんの言葉が頭に残っている。「人の生死に関わることは危険」「限界がある」


 でも、もし本当に効果があるなら…。もし田辺先生のお母様が重篤じゅうとくな状態になったら…。


 みずきは自分が情けなかった。万年筆の力に頼りたいと思ってしまう自分が。


「みずきさん」


 小瑠璃が優しく声をかけた。


「何か悩んでいることがあるなら、お話しになりませんか」


「そうよ」


 恵奈も心配そうに見つめている。


「わたしたち、友達でしょう?」


 みずきは二人の優しさが嬉しかった。でも、万年筆のことは話せない。特に恵奈には。


「ありがとう」


 みずきが微笑もうとしたが、うまくいかなかった。


「ただ、田辺先生のお母様のことが心配で」


「みずきちゃんは優しいのね」


 恵奈が温かく言った。


「でも、わたしたちにできることは限られているの。だからこそ、心を込めることが大切なのよ」


 恵奈の言葉が、みずきの胸に響いた。


 午後の授業が終わると、みずきは一人で帰路についた。小瑠璃と恵奈は一緒に帰ろうと言ってくれたが、今日は一人で考えたかった。


 家に帰ると、母が台所で夕食の準備をしていた。


「お帰りなさい、みずき」


 母が振り返った。


「今日は元気がないのね。何かあったの?」


「お母さん」


 みずきが台所に入った。


「人を助けるって、どういうことなのでしょうか」


 母が手を止めて、みずきを見つめた。


「急にどうしたの?」


「田辺先生のお母様のことを考えていて」


 みずきが正直に答えた。


「わたしたちにできることって、本当に少ないのね」


 母が優しく微笑んだ。


「そうね。でも、その少しのことが、とても大切なのよ」


 母が手を洗いながら続けた。


「人を助けるということは、魔法のように問題を解決することじゃない。その人の気持ちに寄り添うことなの」


「寄り添う?」


「そう。一緒に心配して、一緒に祈って、一緒に喜ぶ。それが本当の助けなのよ」


 母の言葉に、みずきは深く考え込んだ。


 万年筆の力で病気を治すことができたとしても、それは田辺先生に寄り添うことになるのだろうか。むしろ、先生から大切な体験を奪ってしまうことになるのかもしれない。


 その夜、みずきは万年筆を手に取った。


 美しい青い軸が、いつものように静かに輝いている。


「ごめんなさい」


 みずきが小さくつぶやいた。


「あなたの力を、間違った方向に使おうとして」


 万年筆は何も答えなかったが、少し温かくなったような気がした。


 みずきは万年筆を大切にしまった。


 人を助けるということは、その人の代わりに問題を解決することではない。一緒に心配し、一緒に支えることなのだ。


 万年筆の力は、確かに素晴らしい。でも、それ以上に大切なことがあることを、みずきは学んでいた。


 窓の外では、夜風が優しく木々を揺らしている。明日は、小瑠璃と恵奈に、もっと素直に気持ちを話してみよう。


 そう思うと、みずきの心は少し軽くなった。

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