2.『物語』の幕開け
夜の帳が静かに下り始め、王都の中心――王城は、まるで宝石箱のように煌びやかな光で彩られていた。無数のランプが灯り、白亜の石造りの城壁がやわらかな光を反射して輝く。
宮廷の正門前には、次々と馬車が滑り込んでくる。貴族たちが乗り込み、絢爛なドレスと礼服に身を包み、笑みを浮かべて舞踏会の夜に臨んでいた。
ルクレツィアもまた、宮廷御用達の豪奢な馬車に揺られながら、窓の向こうに広がる王城を見上げていた。
(……何度も訪れたはずなのに、今日の王城はどこか違って見えるわ)
胸の奥がふわりと高鳴る。これから始まる物語の序章のように。
馬車がゆっくりと止まり、扉が開かれる。
「お嬢様、到着いたしました」
従者の声に促され、ルクレツィアは静かに足を踏み出す。
ドレスの裾がふわりと広がり、光を受けて柔らかく輝いた。
今宵、彼女が身に纏うのは――淡いローズピンクのドレス。胸元から裾にかけて繊細なレース刺繍が広がり、まるで朝露に濡れた薔薇の花弁のように瑞々しい。ウエストには優美なリボンが結ばれ、背中のレースアップが華奢な背中のラインをより引き立てていた。
プラチナブロンドの長い髪は、ゆるくウェーブがかけられ、サイドを編み込んだハーフアップに。輝く銀細工のヘアアクセサリーが夜の光に煌めく。
一歩、また一歩と赤絨毯を踏みしめて進む。
巨大な扉が開かれ、まばゆい光が溢れ出す。
広間の天井には、巨大なクリスタルのシャンデリアがいくつも吊るされており、無数の蝋燭の光が反射して星空のように瞬いていた。壁際には精緻な金細工と大理石の柱が並び、中央の舞踏フロアは鏡のように磨き上げられている。オーケストラの奏でる優雅な音楽が流れ、甘く華やかな香水の香りが漂っていた。
貴族たちの視線が、次々と彼女に集まる。
それでもルクレツィアは自然な微笑みを浮かべ、ゆったりと首を傾げて歩みを進めた。貴族令嬢としての所作は、幼い頃から身体に染み込んでいる。
今夜の舞踏会には、相当数の貴族が招かれているようだった。――まるで王国中の有力貴族が一堂に集っているかのような賑わいだ。
(これだけ人が多いと、挨拶だけでも骨が折れそうね……)
そう思いながらも、ルクレツィアはゆっくりと周囲を見回す。
ふと、一際人だかりの大きな輪ができているのが目に留まった。
何事かと視線を向けた先に、彼はいた。
ここ、ヴェルディア王国の王太子として君臨するアズライル・ヴェルディア。
艶のある漆黒の髪は柔らかくセンターで分けられ、自然に額へ流れている。緩やかな毛流れが整った顔立ちを優しく縁取り、その双眸は紅玉のように深い紅を湛えていた。だが、その美しい色彩の奥には、氷のように冷えた静けさが潜み、誰も容易には踏み込めぬ孤高の気配を纏っている。
端正な顔立ちはまるで彫刻のように整っており、細く引き締まった顎のラインに高く通った鼻梁、薄く引き結ばれた唇。その全てが絶妙な均衡で調和し、見る者を圧倒する存在感を放っている。
纏う礼装は黒を基調にした重厚な刺繍入りの軍礼服で、王族としての威厳と冷厳さを一層際立たせていた。肩章に輝く銀の徽章は、王太子としての地位を静かに示している。
(……本当に、絵画の中から抜け出してきたみたい)
静かに胸の奥が高鳴った。
乙女ゲームの中で幾度となく画面越しに眺めたその姿は、現実として目の前に立つと、なおのこと圧倒的だった。人気キャラクターの筆頭である理由も、こうして実際に目にすれば一目瞭然だろう。
今世でも婚約者として何度も目にしてきたはずなのに、乙女ゲームの内容を思い出した今となっては、その姿を目にした時の高揚感はまるで別物だった。
そしてその隣に目を移すと、やはり彼の姿もあった。
騎士――アシュレイ・ヴォルク。
ダークブラウンの短髪はきちんと整えられ、鋭さを秘めたスチールグレーの瞳が人々を静かに見渡している。白銀の刺繍が施された純白の騎士服に身を包み、王太子の側近としての誇り高き責務を果たしているのが一目でわかった。
(アシュレイ・ヴォルク……彼も、乙女ゲームの攻略対象者の一人だったわね)
ルクレツィアは内心でそっと呟く。
ゲーム内では王太子直属の近衛騎士として登場し、どんな時も王太子を護る忠義の騎士。普段は口数が少なく、ぶっきらぼうな態度を取るものの、本来はとても優しく、仲間や愛する人には不器用なほど真っ直ぐに想いを向ける。――いわゆるギャップ萌えで、多くのプレイヤーから高い人気を誇っていた。
今世でも彼を護衛として何度も見かけているが、ただの大柄で怖そうな騎士という印象が強かった。しかし、乙女ゲームの記憶が蘇ると、彼の姿が不思議と違って見える。無骨ながらも、どこか不器用な優しさを内に秘めているのだと知ってしまった今、以前とは違う目で彼を見つめてしまっていた。
そんなふうにぼんやりと見惚れていると、不意に誰かと肩がぶつかった。
「おっと、失礼しました!」
「いえ、私もぼんやりしていたので……」
顔を上げた先に立っていたのは、またしても別の美形の男だった。
少しウェーブのかかったミルクティーブラウンの髪が柔らかく揺れ、琥珀色の瞳が人懐っこく輝く。どこか甘い雰囲気を纏った貴族――テオドール・グランチェスター伯爵子息。……彼もまた、乙女ゲームの攻略対象者の一人である。
(……テオドールって確か、こういう舞踏会の場はあまり得意じゃなかったはずなのに。どうしているのかしら……?)
驚きに目を見開きながらも、内心でゲームの設定と現実の微妙な違いに戸惑う。
「えっと、ごめんね!僕ちょっと急いでるから、またね!」
そう言い残すと、テオドールは軽く片手を上げ、颯爽と人混みの中へと消えていった。
(ふぅ……本当に今日は人が多いわ)
人酔いしそうなほどの貴族の群れに息苦しさを覚え、ルクレツィアは少し涼みに行こうと会場の中央を離れ、テラスへと足を運んだ。外気はほんのりと冷たく、煌めく夜空と庭園のランプが静かな安らぎを与えてくれる。
社交の中心に居るべき立場だと頭ではわかっている。だが、今はまだ気が乗らなかった。
(……結局、私には”友人”と呼べる相手なんていないのよね)
幼い頃から未来の王妃として育てられ、交友関係も慎重に管理されてきた。無邪気に笑い合える友人など、唯一歳の近い侍女・リリーくらいだろう。今日のような華やかな舞踏会の場でも、自然と心を寄せられる相手は存在しない。
夜風に吹かれながら、そんなことをぼんやりと思っていた、その時――。
「――やあ、麗しいお嬢さん。こんな夜風に一人なんて、もったいない光景だ」
背後から、低く艶のある甘やかな声が響く。
ルクレツィアが振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
緩く流れるダークワインレッドの髪は月光に照らされ、深緑の瞳が柔らかく細められている。濃紺のロングコートに身を包み、ダーク系の礼服を品よく着こなしたその姿は、この舞踏会においては少し異質で、まるで夜の闇から滑るように現れた紳士のようだった。
ルクレツィアは内心、驚きとともに彼の名前を思い出す。
(……ルーク・グレイヴン。情報屋にして乙女ゲームの攻略対象者の一人――)
ゲーム内では、彼は表向きは伯爵として、社交界の名士を装いながらも、裏で王宮のさまざまな情報を操る情報屋として登場した。その軽妙で掴みどころのない態度と、大人の余裕を漂わせる色気に多くのプレイヤーが惹かれたのだった。
「お一人で?まさか退屈な夜だとお感じなのでは?」
ルークは軽く片手を差し出し、遊び心の混じった微笑みを浮かべる。まるで相手の心を探るような、底の見えない柔らかな視線。だがそれは決して不快ではなく、むしろ心地よく感じてしまうのが彼の魅力だった。
「いいえ。少し休んでいただけですわ。」
ルクレツィアもまた、社交界に生きる令嬢として微笑みを返す。あくまで上品に、隙を見せぬように。
「ふふ。……それでも、こんな月の下、貴女のような美しい方が独りというのは、つい声を掛けたくなるものですよ」
余裕たっぷりに囁くルーク。その仕草一つ一つが、まるで舞台の上の役者のように洗練されている。
(……やっぱり現実で見ると、すごく格好良いわね)
乙女ゲームで何度も見てきた彼――ルーク・グレイヴン。現実の彼は、画面越しで知っていた以上に存在感があった。
もっとも今の彼は、まだルクレツィアに特別な感情を抱いているわけではない。ただ王太子妃候補という肩書きを持つ令嬢に対する、いつもの気まぐれな戯れ。それ以上でも、それ以下でもないのだろう。
(……そうだわ。今のうちに)
ルクレツィアは思い立って、少し挑発するように口を開いた。
「貴方はこの舞踏会について、なにかご存知でいらっしゃるのかしら?」
問いかけると、ルークは片眉を上げて面白そうに唇を緩める。
「おや? これはまた……。もしかして私に情報をお求めですか?」
「あら?この程度の情報すら答えられないのかしら?」
わざと小さく笑って挑発を返す。彼の本心が読めないその微笑が、少しだけ面白かった。
「ふふ……いや、これは失礼。もちろん知っていますとも」
一拍置き、ルークはほんの僅かに目を細めた。まるで何かを含んだ瞳だったが、すぐにいつもの柔らかな笑みに戻る。
「ただ――それは、もう間もなく明らかになりますよ。さあ、中に戻りましょう。まもなく幕が上がります」
彼に促されるまま、渋々もう一度会場内へと歩みを進める。
その瞬間だった。
正面の大階段の上――荘厳な扉が静かに開いた。
ぎい……という静かな音とともに、重厚な扉の隙間から光が差し込み、会場中の視線が一斉にそちらへと吸い寄せられる。演奏がぴたりと止み、先ほどまで華やかだった空気は一転、張り詰めたような神聖な緊張感に包まれた。
扉の奥から現れたのは、一人の少女だった。
アズライル・ヴェルディア王太子が、慎重にその手を取ってエスコートしている。堂々とした歩みにも、どこか彼なりの慎重さが感じられる。
(……あぁ。なんでこんな簡単なことに、今の今まで気づかなかったの……?)
ルクレツィアは、血の気が少し引くのを感じた。
この場面は、よく知っている。――そう、これは物語の始まりの日。
乙女ゲーム『聖なる光と堕ちた神』の冒頭――聖女ソフィア・シュトラスが、王城にて正式にお披露目される、まさにその瞬間だった。
少女は、蜂蜜色のストレートロングヘアをさらりと揺らし、しなやかに歩みを進める。柔らかな光に包まれたその髪は、まるで陽光を受けた琥珀のように輝いていた。透き通る空色の瞳は、どこまでも澄んでいて、無垢な祈りを宿しているようだった。
その身を包むのは、純白の神聖衣。細かな銀の刺繍が淡く光を反射し、まるで祝福された存在であることを証明するように、その小さな身体を神秘的に際立たせていた。
彼女は微笑みながら、ゆっくりとアズライルに伴われて階段を降りてくる。
やがて、会場に司会役の神官の張りのある声が響いた。
「――新たなる聖女、ソフィア・シュトラス殿の御前である!」
その瞬間、貴族たちは一斉に恭しく頭を垂れた。広間は厳粛な沈黙に支配され、神々しさすら漂わせた少女の姿だけが、眩く浮かび上がっている。
(……始まってしまったわ。乙女ゲームの物語が)
ルクレツィアは、胸の奥が僅かにざわつくのを感じながらも、貴族令嬢としての顔を崩さず、優雅に深く礼を取った。
しなやかに降りてくる二人の姿は、まるで神話から抜け出してきたかのように神聖で、絵画のように美しい。
アズライル王太子の漆黒の髪と深紅の瞳、そしてその隣に寄り添うソフィアの蜂蜜色の髪と空色の瞳――。並び立つ姿は、誰が見ても文句のつけようのない奇跡の光景だった。
周囲の貴族たちも、皆一様に息を飲み、その神々しい光景に見惚れている。
(あぁ、ゲーム内ではこれに私が嫉妬して、ソフィアに嫌がらせを仕掛けるんだったわね)
淡々と心の中で過去のシナリオをなぞりながらも、ルクレツィアはふっと小さく微笑んだ。
(別に、この程度で嫉妬するものなのかしら?)
やがて、アズライルとソフィアは階段を降り切り、厳粛な空気の中、正面の壇上――玉座の間へと進んでいった。そこは、まさに神託が告げられるための特別な場。
そして壇上には、もう一人の男が静かに立っていた。
白銀の髪が光を受けて微かに煌めき、淡い金色の瞳が静かに輝く神官――イザヤ・サンクティス。
セミロングの髪を後ろで緩く一つに束ね、神官服の裾が静かに揺れる。まるで神の代弁者そのものであり、攻略対象者の中でも特に神秘的な存在だ。
(イザヤ・サンクティス……彼が、最後の攻略対象者ね)
重々しく、イザヤが一歩前に進み出ると、会場全体がぴたりと静まり返った。
「――神の信託を、ここに述べる」
その低く静かな声は、まるで空気そのものを震わせるように響き渡った。
誰もが、固唾を呑んで次の言葉を待つ。
この国では、セラフィス教が絶対の権威を誇る。神の言葉は法であり、真実であり、疑う余地などないとされている。
その神託は神殿に安置された「
(……まぁ、ゲームで得た知識ってだけで、実際に御書の内容を見たことはないわ。貴族でも簡単に触れられるものじゃないのね)
そんな内心の呟きを抱えながらも、ルクレツィアは神妙な顔でイザヤを見つめた。
「この世界の混乱を鎮めるべく――」
イザヤの声が、再び静寂を切り裂くように響く。
「ソフィア・シュトラウス子爵令嬢が、聖女として選ばれた」
その言葉が告げられた瞬間、会場内の貴族たちから驚嘆と感嘆の微かなざわめきが漏れ出た。
だが、誰一人として疑問を呈する者などいない。ただ神の定めがそこにあるのみ――。
しんと静まり返った会場の空気の中、ソフィアはそっとアズライルの手を離し、一歩前に出た。
蜂蜜色の髪が柔らかく揺れ、純白の神聖衣が光を受けて静かに煌めく。空色の瞳がまっすぐに前を見据え、その小さな唇がゆっくりと開かれた。
「皆さま――本日、このように神の御前にて、聖女としてお披露目いただきました、ソフィア・シュトラウスと申します」
その声は、柔らかでありながらも澄み渡るように凛としていた。会場の誰もが、その一言一言に耳を傾ける。
「未熟な身ではございますが、神より授けられた役目を、心を尽くして果たして参る所存です。どうかこれから、私を導き、支えてくださいますよう――」
ほんのわずかに瞳を伏せ、深く一礼をする。慎ましさと、神聖な役目を背負う覚悟がその仕草に滲んでいた。
「この国が、神の加護と平和のもとにあらんことを――」
最後の一言とともに、会場に広がる沈黙はやがて、ゆっくりと大きな拍手へと変わっていった。
貴族たちは敬意を込めて拍手を送り、幾人かは感動のあまり目頭を押さえる者さえいた。
(私が公爵令嬢でいられるのも――あと三年ってわけね)
ソフィアが現れた今、このまま物語通りに進めば、三年後には聖女としての地位を盤石にし、やがてはゲームど通り、王太子妃の座も奪われるだろう。
ルクレツィアはそう理解していた。
その事実だけが、ほんの少し胸の奥に重たくのしかかる。
けれど――。
(さぁ、追放に備えましょうか)
淡く微笑みながら、ルクレツィアはそっとドレスの裾を摘んだ。
会場はまだ拍手と祝福の空気に包まれている。その中心で、新たな聖女は神々しく輝いていた。
(物語は始まった。でも、今度は私の物語でもあるのよ)
そして、一人の悪役令嬢が、静かに微笑みを残したまま、その新たな幕開けを見届けた。
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