黎明の使徒:名も無き光に殉ず

Norn

第1話:Beginning

神はすべてを愛していた。無限の世界を、無限の存在を。

だがある時、ひとつの世界に生きる人類たちが、上を見始めた。

自らの内に、世界の果てを見ようとする者たち。

その欲望は均衡を崩し、ほころびはやがて、世界を蝕むに至った。



神は迷った。愛するがゆえに、裁くこともできず、放置することもできない。


――ゆえに、神は使徒を創造した。

創造と破壊、試練と救済。

人類がそれを超えて生きるならば、神は彼らを受け入れよう。

だが、超えられぬならば……その世界は、使徒の世界となる。


―――――――――――――――――――――


風が、そっと草を揺らしていた。

朝露に濡れた草原の中央に、ひとりの女が、静かに横たわっている。


大地に身を委ねるその姿は、まるで死者のようであり、けれども、どこか生きた彫像のようでもあった。


風がもう一度、草をなでる。

空が、白く染まりゆく。


その瞬間――女の指が、わずかに動いた。


目蓋が震え、閉ざされた瞳が、ゆっくりと開かれる。


「……ここは」


かすれた声が、風にかき消された。


天を仰ぎ、女はゆるやかに身を起こす。

肩に積もった露が滑り落ち、まるで時そのものが再び流れ始めたかのようだった。


彼女は知らない。ここがどこなのか、なぜ眠っていたのか。

けれど――身体が覚えている。使命が、刻まれている。


背にあるはずの剣の感触を確かめ、女は立ち上がる。

その眼差しは、まるで神意を映す鏡のように、曇りひとつない。


それが、“騎士”の目覚めだった。

世界にとっては無名の女。だが、世界にとっての最初の裁き。


―――――――――――――――――――――


黎明の使徒:名も無き光に殉ず


―――――――――――――――――――――


草原の丘に、静かな足音が響いた。


女が一人、鎧に身を包み、陽のもとを歩いてくる。

その姿を見つけた村の兵たちは、槍を構えて立ちふさがった。

「止まれ! 名を名乗れ!」


女は足を止め、ゆっくりと顔を上げる。

兜の奥から放たれる視線は、まるで星のように冷たく、そして揺るがなかった。

「……我は、第一使徒。神の御旨を帯び、この地に降りた者。」


兵士たちがざわめく。

女は一歩、前に出る。そして、静かに剣を抜いた。

「選ぶがいい。刃を取るか、逃げるか」


刹那の沈黙の後、一人の若き兵士が、叫びながら飛びかかる。


騎士は剣を振るった。

無駄のない、正確な一閃。


兵士の胸元を深々と斬り裂いた。地に血が舞う。


彼女は振り返らない。

すでに次の者が、槍を構えて駆けてくるのを知っているから。

「これは敵意ではない。これは……執行である」


剣を抜いた騎士の前に、次々と村人たちが現れた。

手にするのは、鍛えられた剣ではない。古びた槍、錆びた斧、あるいは農具。

「帰れ! ここは、俺たちの村だ!」


叫びながら突撃してきた男の斧を、騎士は一閃で弾き飛ばす。

斬りつけず、打ち据えず、ただ柄の一撃で男を気絶させるだけだった。


それでも、次の者が来る。

今度は女。年若い、まだ娘と言ってもいいような者。

彼女の腕の震えを見た騎士は、剣を振らなかった。


視線だけを向け、足を止めると、女は膝をつき、剣を取り落とした。

騎士はその隣を、黙って通り過ぎる。


子どもたちが家々の影に隠れ、怯えた瞳でこちらを見ていた。

騎士は一切の視線を返さない。彼らは、戦わぬ者。裁きの対象ではない。


「……我は、戦う者にのみ応ずる」

再び現れた若者が、短剣を構えて飛びかかる。

騎士はその腕を斬る。致命傷ではない。だが、二度目の抵抗はできない深さだった。


地に伏した男に、騎士は何も言わない。

剣を収め、振り返ることなく進む。


人々の叫び、逃げ惑う音。

騎士は止まらない。ただ、戦う者が現れれば剣を抜き、そうでなければ立ち去る。


それが、神の裁きであった。

慈悲でも、怒りでもなく。


ただ――使命。





日が、昇っていた。

空は静かに、雲の帳を引き裂き、透き通った蒼を見せ始めていた。


騎士は剣を収め、村の門を背に歩き出す。

倒れ伏す者、震えながら隠れる者たちの気配を背に受けながら、彼女は振り返らなかった。


振り返る理由が、なかった。

「……これが、審判」

誰に語るでもなく、騎士は呟いた。


足元の土は、乾いていた。血が吸われてなお、何も変わらないただの大地。

空には鳥が舞い、草は風に揺れ、世界はあまりにも静かだった。


騎士の歩みは変わらない。一定の速さで、真っ直ぐに。

世界の果てを目指すのではなく、ただ次の地へと向かう歩み。


その遥か先。

遠く、雲を裂くようにして塔が見えた。城壁の影が、地平線の向こうに浮かぶ。


あれが、街。

人々はそこに逃げ込み、守られたと信じている。

高い壁、深い堀、幾重もの門。そして戦士たち。


だが、それらは「守るための力」ではない。

騎士にとっては、「試されるべき力」にすぎなかった。

神の審判は、等しく訪れる。

それが村であろうと、王城であろうと。


騎士は歩く。

風が背を押す。


――次は、街。


審判の剣は、なお鞘にあり。

だが、それが抜かれるのは時間の問題だった。

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