虚無を喚ぶ者(ヴォイド・コーラー)と聖釘の審問官
南足洵ノ佑
第一章:灰色の街と深淵の兆し
第1節:写本師の悪夢
インクの匂いがした。
瀝青(れきせい)と煤(すす)を煮詰めた、鼻腔の奥にいつまでもまとわりつくような、甘く重い香り。それは、港町ゼーブルクの潮の香りや、市場の喧騒とも違う、工房の主であるカインにとって、世界の他のどんな匂いよりも心を鎮静させてくれる香りだった。この香りに満たされた工房だけが、彼が、彼自身でいられる唯一の聖域であり、同時に、出口のない独房でもあった。
工房の壁際に設えられた小窓から、塩気を含んだ灰色の光が、埃の粒子をきらきらと乱舞させながら、細長い帯となって差し込んでいる。カインは、使い込まれて艶の出た木製の机にかじりつき、子羊の皮をなめした上質な羊皮紙の上を、カラスの羽根を削って作ったペンで滑らせていた。
カリ、カリ、カリ……。
工房の静寂を心地よく、そして機械的に刻んでいく乾いた音。机の上には、様々な色のインクが詰められた小瓶が整然と並び、水晶でできた文鎮が、書きかけの聖句を静かに押さえている。彼の動きには一切の無駄がない。インク壺にペン先を浸す角度、羊皮紙の上を走らせる速度、文字と文字の間隔。その全てが、長年の修練によって、寸分の狂いもなく最適化されていた。
依頼されたのは、教団が新たに配布するという祈祷書の写本。一冊を仕上げれば、平民がひと月は暮らせるほどの報酬になる。だが、カインにとって重要なのは金ではなかった。
彼のペン先が、今まさに描き出しているのは、流麗な飾り文字で綴られた一節だった。
『――神は光、異端は影。影は光あるがゆえに生まれ、光によって滅せられるべし』
カインは、その言葉を書き写しながら、心の内で自嘲の笑みを浮かべた。このペンを握る俺こそが、この聖句が滅すべき「影」そのものだというのに。聖なる言葉を書き写すことで、己の内に巣食う穢れが、ほんの少しでも浄化されるのではないか。そんな、あり得べからざる奇跡に縋るように、彼は一文字一文字を、感情を殺した完璧な正確さで紙の上に再現していく。これが彼の仕事であり、彼の日常であり、そして、出口のない贖罪だった。
――だが、夜は違う。眠りという、抗えぬ安息が訪れるたびに、工房の扉は内側から破られる。
眠りに落ちると、いつもソレはやってくる。音もなく、形もなく、ただ意識の最深部、魂の井戸の底から、黒いインクのようにじわりと滲み出してくる、絶対的な恐怖。
昨夜の夢も、とりわけ鮮明だった。
眼前に広がるのは、あり得べからざる角度で組み上げられた、冒涜的な幾何学模様の回廊。壁は生きているかのようにゆっくりと脈動し、床は粘液質で、一歩踏み出すごとに足が沈み込む。彼はそこを、出口もなく、ただ永遠に彷徨い続ける。耳元では、星々がその軌道の上で軋むような不協和音が鳴り響き、時折、人ならざる言語による冒涜的な囁きが、思考に直接ねじ込まれてくるのだ。
『……我は待つ……偽りの神々の黄昏を……』
その声を聞くたびに、正気がごっそりと削り取られていく。冷や汗でシーツをぐっしょりと濡らし、自らのうめき声で跳ね起きる。心臓は、警鐘のように激しく胸を打ち、しばらくは現実と悪夢の区別さえつかなくなる。
ふと、カインはペンを止めた。ペンのカリカリという音が、あの悪夢の囁きと重なった気がしたからだ。彼は、祈るように己の左腕を見た。震える手で服の袖を捲ると、そこには、呪いの紋様が黒々と広がっている。手首から肘にかけて。それはただの痣ではない。まるで、濃すぎる影が皮膚そのものに染み付いたかのように、工房の光を貪欲に吸い込んで、決して離さない、異質な黒。よく見れば、その黒い染みの中には、無数の微細な文字のような、あるいは虫のような模様が、絶えず蠢いているようにさえ見えた。
呪いの聖痕。力を使うたびに、この紋様は少しずつ、だが確実に、心臓に向かってその領域を広げていく。時折、この痣は、脈打つように鈍く、そして冷たく痛んだ。今もそうだ。悪夢を思い出しただけで、呪いが疼き、彼の生命力を啜っているのが分かる。
「……っ」
込み上げる吐き気と、心臓を直接掴まれるような悪寒。彼は深く息を吸い、どうにかそれを意識の底に押し込めた。大丈夫だ。もう、あの力は使わない。あの日の後悔を、二度と繰り返さないために。
写本師として静かに暮らし、この身体が、魂ごと呪いに蝕まれ尽くすのを待つだけだ。それが、炎の中で助けを求めていた仲間たち……リーゼの、あの手を振り払ってしまった自分への、唯一にして、永遠の罰なのだから。
彼女の最後の笑顔が脳裏をよぎり、カインは強く目を閉じた。
再びペンを握り、写本作業に戻ろうとした、その時だった。
工房の極度の静寂を、暴力的に引き裂く音が響き渡った。
ゴォォン……ゴォォン……ゴォォン……!
街の中央教会が打ち鳴らす、けたたましい警鐘の音。それは、昼の刻を告げる穏やかな音色ではない。空気を震わせ、内臓を直接揺さぶるような、不吉で、切迫した凶音。工房の小窓のガラスが、その音圧に共振して、ビリビリと悲鳴を上げていた。
街に、厄災が起きたことを知らせるための鐘。
カインは、弾かれたように顔を上げた。止まっていた工房の時間が、再び動き出す。いや、破壊される。
インクの匂いに混じって、潮風が、何かを運んできた。鉄錆のような血の匂いと、磯の香りが混じり合った、吐き気を催すような生臭い気配。
遠くで、人々のざわめきと、いくつもの慌ただしい足音が聞こえ始めた。
平穏が終わる音がした。
彼の、贖罪のための静かな時間が、今、終わりを告げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます