十六章

 大きななにかが見えた。

 細く今にも途切れそうな光の先だ。辿れば、『あれ』に到達できる――そう感じて、ソフィアは歩き出した。

 彼女の背後から、なにかが通り過ぎていく。それはある少年の決して幸せではない人生だった。あまりにも早く通り過ぎていったので、ほとんどはよくわからなかった。

 それでも、ソフィアにもわかったことがある。

 ナヤの人生にはふたりの女性が深く関わっていた……ひとりは彼の母親。それから、『ミナハ』だ。

 黒髪の彼女たちは、なんとなくソフィア自身と似ていた。顔立ちも違う。瞳の色も違う。典型的な西方人の姿かたちをしているソフィアと、アゼール系の彼女たち……。

 それでも、似ていると思った。だからナヤはこのふたりの女性の面影をソフィアに見たのだろう。彼がそのそばに行きたいと願っていたのは、そうすることがすべてを終わらせることだとわかっていたからだ。

『ミナハ』……いや、違う。

 彼女はシャナイア。先代の境域の乙女――。

 ユルにミナハの話を聞いたときに、胸に引っかかったわだかまり。それは、ミナハの人生とシャナイアの人生のあいだの奇妙な相似点だったのだろう。

 ミナハもシャナイアも、八年前に、エステルに殺された……。

 境域の乙女とは、あちらとこちらのあいだに立つ、仲介者……。

 そうであれば、オハラシュと実験体たちのあいだを取り持っていたのは彼女にほかならない。見れば、大きな存在からは伸びているのはナヤとの絆だけではない。まだほかにもある。

 見えているだけで三本……。

 ひとつはユルだ。オハラシュの持つ性質のうちの『取引』とつながっている。ナヤは『正義』、そして見知らぬ誰かにつながる『公平』、『平等』……。

 ソフィアは立ち止まった。

 ナヤはもうどこかへ行ってしまった。神と少年のあいだにあった絆がきらきらとした青白いかけらになって砕けていく。

 手を差し伸べると、青白い光の鱗粉が手のひらの上に舞い落ちた。

 大きな存在――オハラシュ。ソフィアにはその全貌をとらえることはできなかった。


「……」

 気づかないうちに、意識を失っていたようだった。

 ソフィアは目を開けた。背中に力強く暖かい感触があって、上からユルがのぞきこんでいる。彼が、背中を支えてくれていた。

「気づいたか?」

「……わたし……」

「あのあと、そのまま倒れたんだ」

 ――あのあと。

 視線を横にすべらせると、そこにナヤが倒れている。眠っているような穏やかな顔をしていた。

「……大丈夫」

 ソフィアはそう言って、ユルの手から逃れようとした。

(……)

 身体に力が入らない。

 手で支えようとして、肘が折れる。ユルが再び抱きとめてくれなければ、そのまま床に崩れ落ちてしまっていただろう。

 その手に握られたままの灰の短剣に気づく。目の前に持ってくると、指が真っ白になるほど握りしめているのに気づいて驚いた。

「……わたし……ちゃんとやれた?」

「ああ。ナヤを楽にしてやってくれて、ありがとう」

「楽に……」

 ユルがソフィアの手を上から包んだ。

 硬くこわばった指に気づいて、わずかに沈黙した。しかし、すぐにいつもの調子で続ける。

「俺にはわかる。あんたがやったことは、決して独善的な終わりの押しつけじゃない。俺にはわかるんだ――そうじゃなきゃ、ほかの誰にもわからない」

 短剣を握った指を、ひとつひとつ丁寧にほどいていく。強引でも、乱暴でもなかった。普段の彼からは考えられないほど丁寧で、優しい。

 ソフィアは彼の言うことを疑わなかった。それを知っていたからだ。ナヤは楽になりたがっていた……。

(そう……わたしにもわかった・・・・

 短剣に目をやる。

 ユルがゆっくりとソフィアの手を自由にしてくれた。灰の短剣を静かに腰の鞘へと戻し、じっと彼女を見下ろす。

「……もう少し休んでから奥へ進もう。バンフィールドのいそうなところはわかってるんだ」

「ああ……そうね。彼女と話をつけるために、ここに来たんだものね……」

 立ち上がるのにはもう少しかかりそうだ。身体が重くて、少し動いただけで息が上がった。

「ソフィア」

 ユルが口を開いた。

「あんたに訊いておきたいことがある」

「え……?」

 見ると、真剣な瞳に行き当たった。

 ソフィアは、こんなときにも彼に惹かれる自分を感じた。逃げる余地のない強い視線だ。真っ直ぐで、ごまかしがない。

「ここを出たら、あんたはいったいどうするつもりなんだ?」

「……」

 頭の中に、ユルの言葉が反響する。うまくとらえられず、言葉が詰まった。

 彼は追い詰めるでもなく、言葉を重ねる。

「どうなりたい? 正直な気持ちを聞かせてほしい」

 ソフィアの沈黙はきっと長かった。ユルはただ待っていた。

 なにからどう言えばいいのか……そんなふうに考え込んでいたら、ばかばかしくなった。ソフィアはため息をついた。

「……今まで、自分は境域の乙女だから、あれをしなくちゃ、これをしなくちゃって思ってたの」

 言葉が出てくるままに任せる。

「だって、そのために生きてきたんだものね。灰の宮の中で暮らして、役目である献灰の儀を行い……義務の中で茫洋とすごしていくんだと思ってた」

「今は違う?」

「そうね。だって、そんなこと別にしたくないし……」

 ソフィアは微笑んだ。

 ユルが訊ねてきたのは、『どうするつもりか』だ。そして、『どうなりたいか』だった。

 だったら、それはもう決まっていた。

「わたし、まずね……ホロウェイ議員には恩返ししようかなって思う」

「……真っ先にすることがそれ?」

「全部聞いて」

「わかったよ」

 なにか文句がありそうなユルを制してソフィアは続けた。

「保身のためとはいえ、いろいろしてくれたものね。だから、境域の乙女として彼のためにいくらか働くわ。なんといっても、彼の助けはこれからもまだ必要そうなんだもの」

「『取引』ってわけか」

「そう。あなたにもわかるでしょう?」

 ユルはなにか、認めたくなさそうな顔をしていた。しかし、彼の論理である取引を持ち出されては、しぶしぶうなずかざるを得なかったようだ。

「わかる……けど、俺はあんまりあの男は好きじゃないんだよな」

「でも、安心して。実は一番やりたいことは別にあるの」

「……なに?」

 どこか期待するような顔だ。

 もちろん、ソフィアはうなずいた。

「あなたの不死の呪いを解く旅に出る」

「……だよな!?」

 ユルがにやりと笑った。

 さっきまであった真剣な雰囲気がやわらぐ。

 彼がその言葉をほしがっていたのには、なんとなく気づいていた。ソフィアはそれをどう受け取ればいいのか迷った――でも、同じ喜びを共有できているこの瞬間を台無しにしたくなくて、それを心の奥底にしまい込んだ。

「そうだよな。あんたは俺のことを世界一心配してくれてるもんな。恩返しなんか後回しでいいだろ」

「た、確かに心配してるけど……急にそんなふうに言わないで……」

「さっき反省したんだよ。あんたを泣かすと思ってなくて」

「……」

 ソフィアは赤くなって目をそらした。まさか、ここでそんな話を出されるとは思っていなかったからだ。子どものように泣きわめいてからそこまで時間は経っていないはずなのに、すっかり忘れてしまっていた。

「そ……それに、恩返しのほうを先にしないと……」

「そんなに待ってたら、俺が持たないかもしれないだろ」

「それはあなたが気をつけないと。だって、不死の呪いを解く旅はきっと長くなるから……」

 他愛もない空想が胸に忍び込んでくる。少佐はきっと、研究ノートか秘密の地図を隠し持っていて、それを手掛かりに旅に出ることになるのだ……。

「……灰の宮の手から逃げ出し、境域の乙女としての役割を捨てて、旅に出る。あんたはなんて言ってたっけ……」

 ユルは一瞬、視線を彷徨わせた。

「そうだ。悪い子だ。ほら、あの日言ってた」

「ああ……夜会を抜け出した日に? そうね……うん、なにもかも投げ捨てて旅に出るって、悪い子のすることね」

 生きていて一番自由だったあの夜。

 夜の街を駆けて、川を飛び越え、ゴミ捨て場に落ちた。その旅に連れ出してくれたのがユルなら、今度はソフィアが彼を連れて――。

「あ……」

「どうした?」

 ソフィアはじっとユルを見上げた。

 どうして今まで気づかなかったのだろう?

「……わたしのことを乙女ではなく、ソフィアと呼んでくれたのはあなただけだったんだ……」

 最初から今までずっと、乙女としてではなくソフィアとして見てくれていた。……ユルだけが……。

「……」

 ユルは少しだけ意外そうな顔になった。とはいえ、すぐにふ、と柔らかい笑みを漏らす。

「俺はそっちのほうがずっと好きだ、ソフィア。乙女よりずっと」

「あ」

 抱き寄せられる。

 頭の後ろに手がまわされた。あまりに近くで見つめられて、一瞬息が詰まる。

「ソフィア。最後まで悪い子でいる覚悟はあるか?」

 その悪戯っぽい問いかけの影に潜む真剣さに気づかないではいられなかった。

 なにも答えられないでいるソフィアに、ユルが重ねて問う。

「乙女ではなく、ソフィアでいられるか?」

「それは、どういう……?」

「いいから」

 ソフィアの戸惑いを意に介さないその強引さ。しかし、わずかな反発心もすぐにどこかへ消えてしまったので、彼女は素直に答えた。

「……ソフィアでいる」

「よし、それでいい」

 それはほとんど一瞬の出来事だった。

 身体が強く抱きしめられた。ぽかんとしているうちに唇を奪われる――ただわずかな瞬間重なっただけの、甘さも余韻もない口づけだった。

「聞けてよかったよ」

 ユルの優しい目が近くにある。

「あんたは自由だ。これからもずっとな」

「……」

 なにも言えないままただ彼を見上げているしかできなかった。ソフィアには、彼のその言葉の意味がわからなかった。

「心配するな。うまくいく」

 ユルが笑う。自信ありげだった。

「俺に考えがあるんだ」


 ――地下。

 階段を下りるたびに、この施設がまだ生きている証拠があらわれた。光を放つ霊機灯。熱を持っているなにかの管。

 その根源がその先にある……。

 一歩一歩、ゆっくり降りていくと、やがて急に開けた空間に行き当たった。

 霊機炉が中央を占めている。一度安定した霊機炉は、半永久的に動き続ける。止めるにはそれなりに手間と費用が必要だった。だから、なんらかの事情で使われなくなって放置された霊機炉はその後もこうしてひっそりと動き続ける。

 青白い光が部屋を満たしていた。

 その中心……。

 神々しさすら感じる淡い青をまといながら、女が立っている。

 背を向けていた。こちらの存在に気づいているにもかかわらず、あまりにも無防備だ。

 ……エステル・バンフィールド。

 ひとりだった。

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