第1話
完全に油断していた。ちょうど大学生活も折り返し地点だし、このまま卒業まで隠し通せるかな、と思いかけていたところだったのに、バレるときはこうもあっさりとバレてしまうものなのか……。
「これが僕であり、わたしだよ」
ふたたび身体の変化を目にしたマナちゃんは、相変わらずぽかんと口を開けたままヤバいものを見るような視線をこっちに向けている。この体質が普通じゃないことは誰よりも自分が重々承知しているつもりだけれど、実際ここまで怖がられるとさすがにヘコむ。
「ほ、ほんとに、あの……カオルなの?」
震える声でたずねる彼女に、カオルはゆっくりと頷き返す。
「カオルが、白崎くんになってたの? それとも、白崎くんがカオルのフリしてたの?」
「いや、えーと、そうじゃなくてね。両方とも本物っていうか——」
「……それ、どういうこと?」
小さな子どもみたいな目をしてマナちゃんがたずねた。
「つまりね、わたしは昔から紅林と白崎の両方で生きてきたから、だからどっちも本当のわたしで、片方がメインとかじゃないんだよ」
いつか正体を明かすことになったときにそなえて、説明する練習は心のなかで何度もしてきたつもりだけど、いざ実際に話すとなると、伝えたいことをちゃんと伝えきれているのか、さっぱりわからなくなる。
「え、じゃあ、心はどっちなの?」
「うーん……。そこは自分でもよくわかんないんだよね」
ようやく立ち上がろうとするマナちゃんに、カオルは恐るおそる手を差し出す。彼女は一瞬、腕をのばしかけたように見えたけれど、すぐに引っ込めて自力で腰を上げてしまった。
「ねえ、もう一度その——変身、してみてくれない?」
「……わかった」
カオルは頷いてまた目をつむると、身体全体を包むように意識を拡げていく。いつもなら十秒もかからないことだけれど、短い間に連続でチェンジしたせいか、なかなか変化が訪れる気配がない。
「……あれ、変わんないんだけど」
「ちょ、ちょっと待ってね。これ、けっこう集中力いるからさ……」
いったん深呼吸して緊張した気持ちを鎮めると、再びカオルは「白崎」の身体をイメージする——イメージするといっても、外から見てわかるような表面的な姿を思い浮かべてもうまくはいかない。「白崎カオル」として生きているときの五感全体、プラス第六感。服に例えるなら「着ごこち」のようなものを心にセットすることが必要だ。
しばらく時間がたち、やっとあの感覚が訪れる。何かの境界をすっと通り抜けて、別の世界へ飛び込んでいくようなあの感覚……。全身がすみずみまで熱くなり、骨や肉が溶けて形を変えていくのがわかる。細胞や組織の一つひとつが組み替えられ、ようやく「白崎」としての姿を成す頃には、体中から汗が吹き出し、頭が少しくらくらしていた。
「やっぱり手品とかじゃないんだ」
思ったよりも近くから声が聞こえて目を開けると、マナちゃんが檻の向こうの動物を見るように前のめりになってカオルを観察していた。
「……わかっていただけました?」
「いや、分かるとか分からないとか、そういうんじゃないでしょ」
彼女は少し眉をひそめる。
「そう、だよね……。隠してて悪かったと思ってる。でもいつかマナちゃんに打ち明けられたらなって、ずっと考えてきたんだよ。だから、いまさらだけど、少しだけ説明する時間をもらえないかな?」
カオルは胸の前で両手を組んだ。マナちゃんはその様子をしばらく見つめると、ひとつ大きなため息をつく。
「……わかった。こんな所じゃなんだし、場所かえよう」
彼女はそう言ってトートバッグを肩にかけ直し、大通りへ向けて踵を返した。
「ありがとうマナちゃ——」
カオルがその背中に声をかけようとしたとした瞬間、
「あ、でもこれだけは先に言わせて」
と彼女は振り返った。
「その姿でマナちゃんって呼ばないでくれる?」
***
カオルは中川さんの後を追って夜の街を歩いた。振り向くことなく黙々と前へ進んでいく小さな背中には、こちらを睨みつけてくるような気迫が宿る。ついさっきまで怪物に出会ったみたいに恐れおののいていたのに、もう平気でその相手に背後を許せるなんて、やっぱりマナちゃんは肝がすわっていると思う。
——ああ、中川さん、だった。
駅から少し離れた広場についたところで中川さんは足を止めた。ここには昼間でもそんなに人はいないけれど、何もない空間がこうして月の光のなかにぼーんと浮かび上がっていると、まるで大きなステージみたいに見える。カオルは連続でチェンジしたせいで喉がカラカラになっていたので、舞台袖にひっそりとたたずむ自販機でお茶を買った。
「中川さんもなにか飲みませんか?」
「わたしはいい」
中川さんはベンチに座って腕と脚を固く組んだ。彼女の頭のなかではきっと今、「カオル」と「白崎くん」という二つのフォルダに保存されたデータを一つにまとめ直す作業が行われているんだと思う。現にカオル自身の脳内でも、今まさに「マナちゃん」と「中川さん」が同居に向けて準備を進めているわけだし。
カオルは中川さんの表情を盗み見ながら、とりあえず彼女の隣に腰を下ろすことにする。ちょうどいいことに、ベンチの真ん中にある手すりみたいなものが二人の間に適切な距離をあけてくれた。冷たいお茶に口をつけながら、さてどこから話したものかと考えていると、
「……いつからそういう感じなの?」
と彼女の方からたずねてくれる。なんだか面接を受けているような気分になりながら、カオルは今まで誰にも口にしたことのない生い立ちを彼女に語りはじめた。
カオルは生まれたときから、見た目的にも遺伝子的にも、女の子とも男の子ともつかない子どもだった。親もさすがに最初は戸惑ったらしいけれど、将来カオルがどんな選択をしてもいいようにと、どっちでもいられるような環境で育ててくれた。
そのおかげか、小学校に入ってからもこの身体の不思議さに困らされるようなことはほとんどなかったけれど、高学年になったあたりから、少しずつ変化があらわれだす。
最初のころは一日あたり二回くらい、急に身体が火照ったような感じになることがつづいた。なにかの病気かと思ったけれど、お医者さんに行っても「まあ、思春期だからね」の一点張り。実際、家でも学校でも印象が変わったと言われることが増えていたから、そうか、いま自分は成長してるんだな、と少しだけ誇らしく思ってさえいた。
だけど、その変わり具合が尋常じゃないというか、明らかにおかしいことになっていると気づいて、カオルはとうとう学校を休みはじめる。しばらく観察してみて、半日ごとに大きな変化が起こるらしいとようやく分かってきたころには、交互に切り替わる二つの身体はもう誰の目から見ても全く別のものになっていた。……しかも、「女の子」と「男の子」の姿に。
あの頃、二つの姿はまだ双子みたいに似ていたからか、意外にも身体が変化すること自体にはそこまで混乱せずにすんだ。ショックだったのは、ずっと自分には「ない」と思っていた性別が身体に刻まれてしまったことの方で、勝手に動き出す生々しいシステムにこれから一生付き合っていかなきゃならないんだと思うと、その途方もなさにため息が出た。
幸いなことに、変化をある程度コントロールできるようになるのにそれほど時間はかからなかったけれど、どうしても「新しい身体」でそれまでのクラスに戻る気になれなかったカオルは、これを機に転校させてもらうことを決める。
転入先の小学校に女子として2年通ったけれど、中学では気分を変えて男子になることにした。そのとき、姓を母方の「紅林」から父方の「白崎」に変えたのをきっかけに、カオルは女性の姿を紅林、男性の姿を白崎と呼ぶようになったのだった。
「高校ではどっちだったの?」
中川さんがたずねる。
「そのまま白崎でした。一日中同じ姿を維持するのはつらいので部活はやらずに、紅林で習い事に通ってましたけど」
とカオルは答える。
「あー、だから今も授業とゼミとで分けてるのか……」
なかなか理解が早くてありがたい。中川さんは立ちあがると、さっきは飲まないと言っていたくせに自販機に小銭を投入しはじめた。
「お医者さんには何て言われてるの?」
「いえ、診てもらってないので……」
「え……?」
彼女は口を開けたまま振り返った。ごとんと音を立ててホットココアが落ちてくる。
「だって危ないじゃないですか。怪しい機関に情報が知られて、ミュータントとしてつかまって、人体実験とかされたら、中川さんだって嫌じゃありません?」
しばらく彼女は呆気にとられたようにカオルを見つめていたけれど、一度大きくため息をつくとココアを取り出して再びベンチに腰を下ろした。
「このこと知ってる人、他にどれくらいいるの?」
缶のキャップを開けて口をつける。
「家族を除けばほとんどいません。この大学では中川さんだけのはずです」
「ってことは、ジュンヤにも言ってないんだ」
「はい……」
と言ったあとで、カオルはその言葉に別の意味を読み込んでしまった。
「あ、だから心配しなくていいですよ。ジャマしたりはしないので」
「はぁ⁉」
中川さんの全身がびくっと跳ねる。飲み始めたばかりのココアが揺れて音をたてたけれど、ぎりぎりこぼれることはなかった。
「このまえ紅林のとき聞きましたよ。ゼミに気になる人がいるけど、いつも友達と二人でいるからなかなか割って入る勇気が出ないんだーって」
「あ、あれは——」
中川さんの顔がみるみるうちに赤くなっていくのがこの暗さでもよくわかる。
「あの発言からすると、もうジュンヤとしか考えられません。あ、まさか、僕——じゃないですよね?」
「ちがいます!」
彼女はキッパリとそう言い切った。
「それなら安心です」カオルはほっと胸をなでおろす。「まさか白崎のためにキャラ演じ分けてるんだったらホント申し訳ないな、って思ってたんですよ」
「……キャラ?」
中川さんは、きょとん、と首を傾げる。
「ほら、今日もゼミでひったくりの話が出たとき、ワイルドなの抑えてましたよね」
「あ……ああ! ——ってことは、あのとき鼻で笑ったのあんたか!」
と彼女はカオルを指でさした。
「いやー、おかしくてつい……」
「ったく、ひとが一生懸命やってるっていうのに……!」
歯を剥き出してジロッと睨んでくる。けっこう本気で怖い。
「そんな余計なことしなくていいんですよ。普段通りの中川さんのほうがずっと素敵だと僕は思います。同性としても、異性としても」
とカオルは微笑む。彼女は一瞬不意を突かれたような表情になると、
「あんたの感想なんか聞いてないし……」
小さな声でそう言った。
「それに、ジュンヤはああ見えて押しに弱いところがあるので、むしろもっと図々しいくらいでいいと思います」
「よけいなお世話です」
残りのココアをぐいっと一気に飲み干した中川さんは、缶を手に立ち上がるとゴミ箱へ向かっていった。
さっきは閻魔様の前に突き出されたみたいな気持ちだったけれど、今は少しだけいつも通りの——カオルとマナちゃんの感覚で話せているような気がする。否定されたら、拒絶されたらどうしよう。そう思ってひたかくしにしてきた身体のことも、正直に打ち明けてしまえばあっさりなんとかなるものなのかもしれない。
カオルがぼんやりポジティブな妄想を繰り広げはじめたころ、空き缶がゴミの山に落下するカランという音が響く。なのに、なぜか中川さんが戻ってくる気配がない。しばらく黙って次の動きを待っていると、彼女はこちらに背を向けたまま呟くように言った。
「ずるいよ、カオルは」
声の調子がさっきと随分変わっていた。
「そりゃあ、わたしだってわかってるよ。ニセモノの自分を好きになってもらっても、あとからだんだん苦しくなってくだけだって。けどさ、演じるのだってそれはそれで必死なわけ。その必死さはホントなわけ」
彼女は息を深く吸って続ける。
「なのにあんたは、空回りしてるわたしのこと遠くから見て嗤ってたんだよね」
そんなことない。カオルは立ち上がってそう言い返そうとしたけれど、できなかった。自分を演じ分けようとするマナちゃんを、確かにカオルは滑稽だと思っていた——というか、もっと正確に言うならどこか冷ややかな目で見てしまっていた。彼女を完全な外側から眺めているような、ひどい錯覚に浸っていたことにやっといま、気づいた。
「あんたに事情があるのは分かった。それ自体をどうこう言う気はまったくない。けど、ひとの心の裏側のぞき見るようなことして平気っていうのは、どうかと思う」
マナちゃんの低い声が、胸を押しつぶすように響く。言葉を失ってしまったカオルがやっとの思いで絞り出したのは、
「ごめん……」
それだけだった。頭を深く下げても、彼女が振り返る気配はない。
「明日からどういう顔してあんたと付き合っていけばいいのか、正直言ってわかんない」
マナちゃんは表情も見せないまま、
「もう帰るね」
と言って歩き去る。また月が雲のむこうに隠れ、彼女の後ろ姿は夜道の奥へ静かに消えていった。
カオルは思考を停止させたまま、ただただ呆然とその場に立ち尽くす。ふいに訪れた空白の時間を、自販機から響く微かな音だけが均一に満たしていた。
***
やってしまった。盛大にやらかしてしまった。カオルは帰宅するなりベッドに倒れ込むと、抱きしめた枕に顔を埋めながら低く唸り声を上げた。
ジュンヤのことを話せば打ち解けられると思っていたのに、かえって裏目にでてしまうなんて……。どうしてあんな余計なことを言ってしまったんだろう。いまさら自己採点しても遅いのに、いったん反省会モードに入ると終わりのないこの作業を延々と繰り返すループがはじまる。
——くっ、情けない。
もうくたくたに疲れてしまったし、これ以上なにかする気力も残っていない。やるべきことは全部あしたにまわしてフテ寝してやる——そう思った矢先、お腹がぐうっとなる音が部屋中に響いた。
カオルは仰向けになってゆっくり深呼吸すると、
「ごはんたべよ」
と、ひとり呟いて体を起こした。
食欲はわいたものの、なにかつくれるほどの元気は持ち合わせていないので、週末に作り置きしておいた膨大な量のカレーに頼ることにする。鍋のカレーを火にかけながら、レンジで冷凍唐揚げを八つほど温めつつ、2パック分のミニトマトのヘタを取って水で洗う。炊飯器のご飯をお茶碗三杯くらいよそって贅沢な比率でカレーをかけ、最後にインスタントのコーンポタージュをお湯でとかすと、自分にしてはバランスのいい夕食ができた。
世間一般の感覚からすると、ちょっと多めに思えるかもしれない。でもカオルはこれくらい食べないとすぐにまたお腹が空いてしまう。それは大食いだからというよりも、たぶんこの体質によるもので、変化のさいに消費する莫大な量のカロリーを毎日こうして摂取する必要があるんだと思う。このエンゲル係数の高さは生命維持費として割り切らなければならない。
「いただきます」
手を合わせると、まずは唐揚げを口に運ぶ。いつも変わらないこの美味しさに、鶏さんと冷凍食品のありがたみをもぐもぐと噛み締める。
そういえば、カオルほどではないけれどマナちゃんもよく食べる方だ。でもそれを知られることにはなかなか抵抗があるようで、このまえ白崎とジュンヤと三人で学食に行ったときなんかは、いつものご飯大盛りを頼まなかったうえにおかずまで一品へらしていた。やっぱりマナちゃんは周りの目を気にしないでのびのびとしていた方がずっと——そこまで考えたところでスプーンを握る手が止まる。
「べつに、わらってなんかないよね……」
と、向こう側に座らせた大きなくまさんのぬいぐるみに話しかける。
踏むべくして踏んだ地雷だった。取り返しがつこうとつかなかろうと、なにもなかったフリをしちゃいけないのは分かってる。それでも食事中くらいはせめて、明るい気分にさせてほしい。
カオルはテーブルの端からイヤホンをひっぱってきて耳にさすと、こういうときいつも聞いているあの曲を探して動画の再生リストをスクロールする。
——あった。
歌謡曲を専門にしていたとあるVライバーが歌う「上を向いて歩こう」。芯の強さと柔軟さを兼ね備えた彼女(?)の声が不思議とこの曲に合っていて、投稿された4年前からずっと輝きを失わずにこの胸の中にある。
視聴者もけっこういたはずなのに、彼女はこの曲を歌った直後から活動をやめてしまった。あの人がいまどこにいて、なにをしているのか、そもそも生きているかどうかさえわからないけれど、カオルは彼女の足跡のようなこの曲を聴くたびに、自分も自分の道を歩いていこう、と思う。どこへ続いている道なのか、たとえ今はわからなくても。
歌に合わせて体を揺らしながら、カオルはさらに一杯カレーをおかわりした。
***
翌朝、いつもより早く大学に向かったけれどマナちゃんの姿を見つけることはできなかった。一時限目も二時限目も紅林が所属している生物科の専門科目なので、当然、彼女が現れることはなかったし、途中の休み時間をつかって探しに行く余裕もなかった。
そして訪れた昼休み、カオルは食堂の目の前にある階段の下でマナちゃんを待ち構える作戦に出る。この時間帯なら学部に関係なくほとんどの学生が昼食をとるため、もしくは帰宅するためにここを通っていく。その人数は膨大だけれど、どうしても彼女に直接会って話したいカオルには、他に効率の良い手段は思い浮かばなかった。食堂に入っている間に通られてしまっては困るので、持参したおにぎりを黙々と食べながら、監視カメラのように階段の方を睨みつづけた。
カオルが出席した二時限目の講義は予定よりも早めに終わったので、最初は一人ずつぽつぽつと通り過ぎるだけだったけれど、数分も経たないうちに他学部の生徒の集団がぞろぞろとやってきて列をなしはじめる。
こうして見てみると、この大学では相当な数の生徒が同時に学んでいて、そのほとんどの顔も名前も、自分は知らないんだということを思い知らされる。このなかの一人が突然ふわっと浮かび上がるようにして、他のだれとも違う存在として目の前に現れる——それは奇跡と呼んでいい瞬間なのかもしれない。
「マナちゃん……」
二人はこれまで一度も待ち合わせなんてしたことがなく、出会ってからずっと偶然に任せて付き合ってきたけれど、いま初めてカオルは自分の意思で彼女に会おうとしている。
せっかく共にいてくれた友達を、こんなかたちで失いたくない。カオルは拳にぎゅっと力を込めた。
それでも、なかなかマナちゃんは現れなかった。持ってきたおにぎりがひとつ、またひとつと胃の中に消えていき、階段の前を通る人が減っていっても、彼女が姿を見せることはなかった。
やがて人通りがほとんどなくなり、あたりが静かになったところで時間を確認すると、次の授業まであと十分を切っていた。
「……今日はもう、潮時かな」
じゅうぶん注意はしていたはずだけれど、もしかしたら見逃してしまったのかもしれないし、そもそも彼女は昼休み前後の授業をとっていなかったのかもしれない。
今日がダメでもまたいつか会える、はず。カオルは自分にそう言い聞かせて階段を上りはじめた。すると——。
「……あれ?」
カオルの目と鼻のさき、階段を上ってすぐのところに、小柄な女性の後ろ姿があった。長い髪を風になびかせながら仁王立ちする彼女は、階段の上に広がるなにもない空間をただただじっと見つめているようだった。まるで、誰かが来るのを待っているみたいに。
「マナちゃん?」
彼女は声に振り返ると、驚きと安堵が入り混じった表情で、
「か、カオル⁉」
と言って階段を下りてきた。カオルも急いで彼女のもとへ駆け寄る。
「ごめんなさい!」「昨日はごめん!」
そう言って二人が同時に頭をさげた瞬間、互いの額がぶつかり星や火花がほとばしる。
「——った~!」
どうやらうっかり距離を詰め過ぎてしまっていたらしい。普段なら身長差でこういうことは絶対おこらないのに、階段というロケーションが恨めしい。
「だ、だいじょうぶ、マナちゃん……?」
「いや、そっちこそ……」
おでこをさすりながら二人は顔を上げる。カオルがさっそく口を開こうとすると、マナちゃんが「あ、待って!」といって手で制した。
「わたしに先に言わせて」
カオルは黙って頷き、彼女の言葉を待つ。
「あのとき、わたしまだ混乱してて、本当バカみたいな理由でカオルのこと責めてた……。あんたは勇気だして自分のこと話してくれたのに、ひどいこと言ってごめん」
まっすぐな瞳でそう言うと、マナちゃんはもう一度深く頭を下げた。
「全然バカみたいなことじゃないよ」カオルは言った。「わたしこそ、大きな嘘をついて生きてる自分のこと棚に上げて、マナちゃんに勝手な願望を押し付けてた。……他人の視線を気にして生きてきたのは、他でもないわたし自身だったのに」
カオルもまた彼女に頭を下げる。
「なにも伝えずに別の姿でマナちゃんと会ってたのも、やっぱり良くないことだったと思う。……反省します」
「それは……いいよ」
マナちゃんはカオルの頭にぽん、と手を置いた。
「相手も自分も傷つけない秘密なら、いくらでもあっていい……でしょ?」
カオルは顔を上げて、マナちゃんとともに無言で頷き合った。すると、なぜか急に恥ずかしいような気分になってくる。自分のなかの、未完成で壊れやすいパーツを手渡してしまったみたいに。
「……それじゃ、これで仲直りってことでオーケー?」
微笑するマナちゃんに、カオルは「それならあと一つだけ……!」と言って付け加える。
「わたしが好きなのは芹沢さんだよ!」
「……は?」
マナちゃんは唖然とした表情で固まってしまう。
「あー、ほら、マナちゃんの好きなひと聞いちゃったから、わたしの方も、と思って……」
「いやー、べつに知らなくていいし」
やれやれ、と彼女は肩をすくめる。
「わたしはマナちゃんがジュンヤと距離を縮めるの手伝って、マナちゃんは白崎もしくは紅林と芹沢さんが仲良くなれるように協力する……っていうのはどうかな?」
「結構です!」
「じゃあわたしが一方的にキューピッドやるしかないか」
「いや、だから余計なことしなくていいって!」
マナちゃんがわりと必死そうに断るので、さすがのカオルもこれは本気でやめておいたほうがいいと悟った。
「はぁ……。これは先が思いやられるわ」
雲一つない晴天の下、彼女はいつものように腕組みをして苦々しく笑った。
こうしてカオルは——白崎でも紅林でもないカオルは、初めてマナちゃんという友達に出会った。それは二つが一つになった、なんて簡単なことじゃない。まったく別の何かが始まったんだとカオルは確信していた。
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