小路に立つもの
天野商店の店主を務める彼が“それ”と出くわしたのは、ちょうど同じ日の夜半のことだった。
本格的な夏を前に、業務用冷凍庫のメンテナンス等について打ち合わせをすべく訪れた町の設備会社、その帰路の出来事だという。
『いいですか? まず冷凍機の仕組みとして、冷媒というものがあって』
『霊媒だと? んな話してねぇだろ今』
互いの主張に妥協点を見い出せぬまま、本日の話し合いもお開きとなった。
その旨を報告すべく携帯を取り出したところ、当の娘から“ちょっと出かけます”との連絡が入っていることに気づいた。
なら急ぐ必要もねえかと、ぬるい夜風を浴びながら、落ち着いた足取りで家路をたどる道々のことだった。
「うん…………?」
奇妙なものを見た。
所は“たこやき公園”を抜けた先にある小路。 周辺住民から、生活道路として重宝される手狭な路地である。
行く手に独り、それはひっそりと佇(たたず)んでいた。
いや、佇んでいたと言うよりは、蟠(わだかま)っていたと表すほうが正しい。
まるで陽炎がひょろひょろと差し昇るように、辛うじてヒトの形を取り繕っている。
「なんだコイツは?」
長いこと高羽(このまち)に居るが、こんなモノは見た覚えがない。
天眼通を働かせたところ、ようやくそれらしい実態が朧気にも把握できた。
性別は女性のようだが、年頃は定かでない。少女にも見えるし、見ようによっては婦人にも見える。
頭髪は透けるような白銀で、あたかも季節外れの雪景を彷彿とさせた。
装いは──、装いは、形式からして汗袗(かざみ)か。
「………………」
かすか、心胆を抉(えぐ)られるような気色を覚えたが、それとなく往(い)なし平静を保つ。
ともかく容貌を観察しようと努めた途端、うすら寒いものを感じた。
面差しはひどく美しい。
それこそ、ひと目で異性を虜(とりこ)にし、妬みの類を生じさせる暇もなく、同性をも魅了しようかというほどの尤物(ゆうぶつ)である。
ただ、双眸が尋常ではない。
先方の眼には、執着というものが微々として浮かんでいないのだ。
浮世を渡る上で、煩悩はひとつの動力源となり得る。
欲望を昇華、浄化することは可能だが、それそのものを無くすのは不可能だ。
しかし、女の双眸(そうぼう)にはまったく執着(それ)がない。
満悦に足る最期を迎えた野花の類か。
いや違う。
どうやら実情は、それほど小綺麗なものでは無いらしい。
そもそも生前の未練を悉(ことごと)く断ち切った者が、こうして現世に留まっているというのは理屈に合わない。
一生涯を終えた者は、程なく“あちら”に迎えられる。
これを己の意思で辞することは非常に難しい。
なけなしの未練でどうこうなるものではない。
冥府の役人はそれほど甘くはないし、職務に怠慢でもない。
それこそ、地に染み渡るような恨み辛みであったり、霊人にはあるまじき絶後の怒りがあって初めて、彼らの嚮導(きょうどう)を一時、ほんの一時だけ遅らせることができる。
「………………」
彼女から感じる寒気の正体はそれだ。
人ならざる身となった後、何の感懐も持ち得ない者が、こうして現世に居続けることなど断じて出来はしない。
存在するはずの無いもの。存在してはいけないもの。
有り体に言えば、彼女はまさにそういった存在(もの)に当てはまる。
“こちら側”の可能性も考えたが、毛ほどの神気(かむけ)も無い。
まだ新米、駆け出しの可能性も勘定に入れたが、ここ最近、特にそういう報告は受けていない。
どうしたものかと倦(あぐ)ねてはみるも、取れる手段として、放置以外にはなさそうだ。
天の神は、地(くに)にあってはあくまで佐(たすけ)である。
国津神(れんちゅう)が動いていない以上、独断で事を運ぶわけにはいかない。
産土神(うぶすなのかみ)は元より、土地神や道祖神も騒いでいないようだし、特に危険な存在ではないのだろう。
「あ……?」
そう割り切って彼女の脇を素通りしようとした矢先、左の袖口に違和感を知った。
視線を落とすと、白い指先がこれをキュッと掴まえている。
ひどく頼りのない、振り払えば折れてしまいそうな細指だ。
こちらをぼんやりと見上げる容貌には、相変わらず表情らしい表情はなく。 ただ眠たげな瞳が、あらゆる情緒を置き去りにした瞳が、民家の灯りをチラチラと照り返すのみだった。
「俺はお前さんの父親(てておや)じゃねえぞ?」
なにを以(もっ)てそう唱えたのかは判らない。
見ず知らずの相手、それも正体すら知れない存在に、父性から来る情愛を差し向けられるほど器用ではない。
元より、あの跳ねっ返りの面倒を見るだけで手一杯の不精者(ぶしょうもん)だ。
こんなもん相手にせず、さっさと行っちまやぁいいじゃねえか。
そんな風に自分に言い聞かせてはみるものの、どうしてもその通りには熟(こな)せない。
「………………」
「………………」
夏夜(かや)の小路における奇妙な睨み合いは、その後も延々とつづく運びとなった。
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