第13話

人の身柄が宙を舞うところを初めて見た。


いやあれは、そんなに生易しいものじゃなかった。


さながら剛速球と化した彼女の体躯は、私たちの横合いをビュンと通り過ぎ、群生する木立を直撃。


粉々に散(あら)けた屑物と一緒くたに、公園のほうへ転がり込んでしまった。


「………………」


私たちは皆、判で押したように唖然としていたが、手を下した当の怪物もまた、人並みの躊躇いに似たものを滲ませているように見えた。


もちろん、相手は表情の読めない節足動物のことである。


こちらが都合よく解釈しただけかも知れないが、明らかに登場時の活きの良さを失っている。


かの巨体が、幾分にも萎んでいるような錯覚がした。


“やっちまった”


その時の彼の心情を代弁するなら、こんな感じだろうか。


恐怖のあまり、思わず先に手を出してしまった。 あとの報復を、まったく勘定に入れることなく。


「なんか………」


「かわい……くはない……!」


「ん……」


妙な話ではあるが、情に絆(ほだ)されるとはこういう事を言うのだろうか。


それよりも、問題は彼女だ。


今しがたの生木が裂ける音、地鳴りを彷彿とさせる轟音が、いまだ耳の奥にしつこく残っている。


目を眇(すが)めて確認すると、派手に砕け折れた木々が重なり合い、台風後の気色にも似た様相を呈している。


どれほど強烈な慣性が働こうとも、人体の強度は限られている。断じてああはならない筈だ。


“あのヒトはたぶん、人間じゃない”


おいそれと鵜呑みにはし難(がた)い所感であるが、そう思い至るのも無理はない。


世の中にはまだまだ未知のことが沢山あるし、それを柔軟に受け止めることができるのは、子供たちの特権だったろう。


現に、幾分にもショボくれた印象とは言え、我々の近くにはザリガメという怪物がたしかに居座っている。


純な冒険心に駆られた私たちは、知らず知らずの内に、踏み込んではいけない領域に足を踏み入れてしまったのだろうか。


「………………っ!?」


それぞれ言葉を失う中、公園の方角より何やら恐ろしい気配が膨れ上がるのを感じた。


身の毛がよだつとは言い得て妙だ。


真夏日の暑さが、一瞬で遠のいた。


「いや……ッ、待て待て待て!!」


慄然とする私の耳は、たしかにそんな風なセリフを聴いた。


自分に言い聞かせるような。己の手綱を力任せに締め上げるような語気だったと思う。


程なく、肌身を席巻した冷感と言おうか、戦慄の気は鳴りを潜め、ふたたび盛夏の熱気が首筋をじりじりと焼いた。


「油断した。くそ……ッ」


間を置かず、足元に散らばる木端(こっぱ)を踏み分けながら、彼女がこちらに歩いてくるのが見えた。


何となく予想できた事だが、その身柄に深刻な痛手を負っている様子はない。


ただ怒り肩を戦慄(わなな)かせて、ずんずんと歩みを進めている。


目指す先は決まっていた。


これはさすがに、当事者でなくとも逃げ出したくなる。


背に負った気炎は、可視が適いそうなほど万丈に燃えていたし、身体のあちこちに細かな雷(いかずち)が這っているようにも見えた。


彼女がどのような存在であれ、恐らくこの後は悲惨な展開が予想される。絵に描いたような報復劇だ。


「………………」


片や、自然の摂理に反した生き物に、片やその摂理すらも手中に納め、平らげようかという女丈夫。


図らずも彼の怪物に──、ザリガメに同情の念を及ぼしてしまうのは、これもまた私たち人間の、ひとつの身勝手だろうか。

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