三秒前、世界は。
右遠あい
1
放課後を告げるチャイムの音が教室に鳴り響き、学校が騒がしさとともに一瞬揺れる瞬間。その一秒にも満たない時間が、俺は好きだ。
さっきまで死んだ目をしていたクラスメイトたちが、水を得た魚のように勢いよく部活道具を手にして教室から飛び出していく。友人の名前を呼び合う声や駆ける足音がリズムよく響き、空間の色がいっきに賑やかになる。
いつもならそれに続くのに、と心の中でぼやきながら掃除用具入れから箒を取り出して息を深く吐いた。
早く掃除を終わらせれば部活へ行けるけれどやる気にもなれない。
窓の横に背をつけて机の並ぶ室内を眺めていると、目の前を通ったクラスメイトが声をかけてくる。「掃除おつー」「じゃーなー」とニヤけづらの男どもを箒で薙ぎ払い、「また明日」と苦笑いの女友達にひらひらと手を揺らす。
そうしているうちにひとが減ってきた教室の中は静まり始め、廊下の賑わいももう収まっている。この時間は、少しだけ苦手だ。はやく部活へ行きたい。
教室の窓から下を覗くと、人工芝のテニスコートには早くも部員が集まってラリーを始める姿があった。暑さは今日も特段厳しいけれど、日光は目の前が眩しすぎるくらいで絶対に気持ちがいいだろう。こんな良い天気なのに掃除当番なんて、本当に運がない。
「灮太郎、サボりはよくないと思うけど?」
太い声が隣に聞こえて、同時に隣にガタイの良い男子生徒が隣の壁にもたれかかってきた。
「……藤田だって箒やってないだろ」
「おれはちりとりの出番待ち」
手にしたちりとりをプラプラ揺らしながら、藤田は大きくあくびをした。ふわーあ、と間抜けな声が隣から聞こえてくる。
放課後はいつも忙しそうにデカい身体で動き回っている彼だが、今日はやけに落ち着いている。
「今日は、部活には急がなくていいのかよ」
「珍しくオフだから大丈夫。てかせっかく部活休みなのに掃除とかだるくね」
「だるい。俺だってこんな晴れてるのに掃除とかしたくないっつの。……まあ、サボってるんだけど」
「そのうち、雪乃が怒ってくるぞ」
「藤田にもだろ」
そう言ってケタケタ声をあげて笑いあう。中学からのこの温度感は、今日もなんら変わりはない。
肩まで捲り上げられた白いシャツから伸びる彼の腕は、唐揚げ色にきれいに揚がっている。筋肉質でガッチリとした体格は、まさしくスポーツマンの外見だ。坊主頭ではなく尖り気味の短髪だが、一発で球児だと分かるからおもしろい。それほどに、男らしさがあるのだろう。
テニスコートも野球場も日差しの強さは変わらないはずなのに、焼けにくい肌質なのか、俺の肌はどちらかと言えば白い。そのことも相まってか、周囲から俺は少々ヒョロく見えているかもしれない。
「あ、そういえばさあ、かなちゃんが灮太郎と連絡先繋がりたいってー」
「……は?」
あっけらかんと告げる彼のせいで一瞬反応が遅れた。
起こしかけていた体が壁に逆戻りしてゴンと鈍い音が響く。頭をぶつけたらしい、けれど痛みがはいってこない。不意打ちの言葉のせいで身体が硬直して、脳がショートしたみたいに視界が真っ白に染まる。
藤田の言葉の意味がうまく理解できなくて、は? が口から何度もこぼれ落ちる。
かなちゃん——果夏。
自動変換みたいに勝手に浮かんだ名前は、耳にするのは久しぶりで、ぎゅっと心臓が縮こまった。
遠い過去から逆流してきた熱い記憶で目の前がチカチカする。どどっ、と心臓が大きく波打った音がした。
動揺をうまく隠せないまま彼のほうを見やると、藤田はすべてを分かったように太眉を下げて笑った。
「村重花菜ちゃん。ほら、週末遊んだ北高の」
「は————……あ、ああ、村重」
「そう、連絡先訊かれたから。やっぱモテ男だねえ、灮太郎くんは」
にやにやする藤田に「そんなんじゃないだろ」と冷たく返した。
詰まったみたいにずっしり重かった脳みそから、何かがしゅるしゅると抜けていく。一気に現実に引き戻された感じだ。軽い喪失感と藤田への苛立ちから徐々に冷静さが戻ってきた。
当たり前だ、都合よくそんなこと起こるわけがない。一瞬でも本気に受け取った自分がバカみたいだった。
村重は、先週末誘われた遊びに参加していた女子のひとりだ。集まっていた女子のなかで最もメイクが濃くて、やけにしつこく俺や藤田へ話しかけてきた記憶がある。
クラスの友人に屋内スポーツ施設に誘われたときは心躍ったが、来ていた面子は男だけでなかった。友人が勝手に誘っていた女子も数名参加していたのだ。当然、そのことは聞いていなかったのだけど。
女子に気を遣わなければならないし、友人もいつもと調子が違うしでかなり苦痛な時間だった。これが嫌だから合コンなどの誘いは今まで断ってきたのだが、ついに強引に参加させられた、という感じがする。
村重の名前が『かな』だったのは知らなかった。紛らわしい名前しやがって、と心のなかで舌打ちする。
「もしかして、誰か他のかなちゃんと勘違い?」
確信犯のくせに、藤田はそう笑ってくる。
長い付き合いだと、知られたくないことまでイジられるから面倒くさい。というか、今回のはあまりにも悪質で、それにタチが悪い。
そのことをこいつは理解していると思っていたのに。
「知らねー」
「拗らせてるよな、ほんと」
「そんなんじゃないし」
イライライラ、暴れ出したいような不満が募るのとともに、口調が鋭くなっていくのがわかった。
拗らせていることなんて、俺が、一番よくわかっている。それを軽い気持ちで指摘されるのは嫌だった。ガキみたいだけれど、バカにされているみたいで耐えられない。
制服のポケットに手を突っ込むと、ひんやりと硬いレジンの感触が手に伝わってくる。冷たい感触が手に伝わって、荒ぶっていた心がだんだんと落ち着いてくる。
レジンのキーホルダーが家の鍵にぶつかって、カラと音をたてた。その音に、藤田がまた呆れたようにまた小さく笑った。
「一途バカ」
「……うるせーし」
「灮太郎ー、いい加減掃除手伝いなよー!」
女子の声が割り込んできて、隣の藤田とともに揃ってぱっと顔を上げる。見ると、俺たちの前で箒を手にしている女子生徒が軽くこちらを睨め付けている。
「ああ雪乃、今大事な話してるから。ほらタイミング」
「大事な話って恋バナでしょーが。藤田部活ないなら掃除のあとにしろー」
「おまえおれらの会話盗み聞いてたよな絶対」
「藤田は無駄に声大きいから耳に入ってくるし、不可抗力ですー」
藤田の負けず劣らずの声量で応戦していた彼女は、「声が大きいの灮太郎もだけどね」と頬を引き上げてこちらを向いた。
窓から差した光で、彼女の胸下あたりまである金髪がキラキラと輝いた。光を強く反射している部分は白く見えてなんだか眩しい。髪を巻いたり結んだりはしていないし、メイクだって濃くはない。だけれど元の顔立ちが良いのか、切れ長の目に薄く色味が乗った唇、すっと通った鼻梁とかなりの美人だ。加えて髪色と着崩された制服のせいで、若干ギャルっぽい。
掃除をしない男子を注意する、と言う行動だけで見ればまるで学級委員長のようだが、髪色や短いスカートのせいで教師に目をつけられている彼女はどちらかといえば問題児寄りだ。しかし人に迷惑をかけることはしないらしく、おとなしめな女子たちに混ざって掃除をしたりと、意外ときっちりしている印象がある。
雪乃の後ろでは、数人の女子生徒がせっせと机を運んでいるところだった。ちらちらとこちらの様子を伺っているのが分かって、なんとなく居心地が悪くなってくる。
「雪乃が言うなら、掃除やるかあ」
と彼女の機嫌をとるつもりで言って今度こそ重かった身体を起こした。
外からは蝉の鳴き声とともにワーワーと賑やかな運動部員の声が届いてくる。三年の先輩がまだ引退していない部活は、最近余計に熱が入っているように思える。男テニはそこに該当していないけれど、掃除とはいえあまり遅れるのもまずい、ような気もしてきた。
ふと雪乃の方を見てみると、彼女は口元に手の甲を当てて斜め上を見上げている。
視線を辿っても、そこには虚空しかない。
いったいどこを見ているのか。ちらりと一瞬見えた彼女の頬は、微かに朱が差しているように映った。
なぜかまたニヤつき始めた藤田の肩を「やるぞ」と三回軽く叩いて、足を前へすべらせる。手近にあった机を椅子とセットにしてぐんと持ち上げた。
鉛のような重みを腕に感じながらのろのろ足を動かしていると、隣の机を運んでいた藤田がさっきのように並んできた。
「なあ灮太郎、『世界五分前仮説』って覚えてる?」
「……はあ?」
思わず素っ頓狂な声で聞き返してしまった。急に何を言い出すんだこいつは。
『世界五分前仮説』。
聞き覚えのある言葉だ。驚きというよりは少し懐かしい。
「覚えてる、けど、それがどうした?」
「さっきの話の本題、忘れてたからさ」
藤田は、いつの間にか掃除に戻っていた雪乃の方を一瞬向いた。
なんだ、と思っていると、いつにも増して神妙な面持ちで彼がこちらを振り向く。
頬がひりつくような緊張が漂って、不穏さに喉がゴクリと鳴った。
「おまえがずっととらわれている過去も、もう、過去なんだよ。だから……」
穏やかな口調で告げられたその先は、がちゃ、と藤田が机を下ろした音で聞こえなかった。彼が言葉を止めたのかもしれない。けれど、その続きはなんとなくわかってしまった。
鈍器で頭を殴られたように頭の中がグラグラ痛んで、気づけば俺も机をおろしていた。
こちらを向く彼と目を合わせられなくて視線が下へ落ちていく。無機質な机の木目が、ゲシュタルト崩壊して歪み始めてくる。
息を薄く吐き出すと、喉にこびりついた何かが苦く口の中に広がった。
「……それは、もうわかってんだよ」
絞り出した声は空気に溶けてしまいそうなほどに力無くて、口の端が歪んだ。
もう二度と会えないことなんてとっくに分かっている。
そんな都合のいい世界じゃないことなんて、もう知ってる。
でも俺は、ずっと同じ場所で足踏み続けている。
前に進みたい。その思いは本心なはずなのに、不思議と薄っぺらく思えてくる。本当はあいつのことを忘れて前へ、なんて絶対に嫌なくせに。それなら足踏みでもいいと思ってしまうくせに。だから、俺はずっと停滞している。
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