感情遮断都市ノア=ゼロ ―記録されなかった涙―

ねこげ

第1話 目覚めの雨

 電子の雨が降っていた。


 上層からこぼれ落ちた情報の断片が、静かに空間を漂う。微細なナノ素子が空気中に溶け、青白い霧を作り出す。そのもやが、鉄錆と油の匂いを含んだ空気の中でぼんやりと光っていた。


 ここは感情抑制都市ノア=ゼロの最底辺にある、通称アンダーネスト。人間とアンドロイド、そのどちらにも「要らない」とされ廃棄されたものたちが集う、この都市における影の掃き溜め。


 様々なゴミや廃棄物の瓦礫の海で二つの瞳が音もなく、薄く開いた。


 高性能AI搭載人型軍用アンドロイド【ユゥ=037】は、静かに起動する。

 白銀の髪と青い瞳が上層からほんのわずかに差し込む人工灯に反射して淡く光っていた。

 その姿は、まるで人間の少年のように見えるが、肌は異常なまでに滑らかで均一、血色もなく、温度も感じられない。顔立ちは整いすぎていて、どこか“造られた均衡”とでもいうべき不自然さがある。それをより際立たせるのは、その表情の無さだ。まるで仮面のように動かない顔が、彼の異質さを直感的に感じさせる。


 突然、金属音のような電子パルスがユゥの視界を走り、HUD《ヘッドアップディスプレイ》上に複数の警告ウィンドウが次々に現れる。


 

 <メインプログラム:予期せぬ再起動>

 <コアメモリ:部分的に破損>

 <戦闘モード:スタンバイ状態>

 <感情遮断プロトコル:異常検知>



「システム……チェック開始」


 ユゥは自律的に起き上がり、関節の可動域を確認した。違和感はない。各種センサーも正常。外部損傷もなし。

 異変は明らかに「内部」にあった。

 

「記録領域に空白……?」


 記録領域は人間でいうところの記憶を司る海馬と大脳皮質に該当する。

 ユゥはHUDに表示されたエラーの意味を解析しようとした。だが、いくら演算しても、その“空白”がどうして生まれたのか説明がつかなかった。ユゥは記録が喪失したことによるものとその原因を一時的に仮定した。


 アンドロイドにとって、記録は構造の一部だ。

 人間の記憶とは違い本来、喪失はありえない。だが、それ以外に記録領域の空白の説明ができなかった。


 ただの欠損ではない。それは“異常”だった。


 通常の倍以上の時間をかけてようやく起動できたメモリの奥底に残されたわずかな映像。そこに映っていたのは、震える両手と、曇った視界、そして頬を伝う一筋の液体。


「これは……雨」


 ユゥの判定が外れる。その液体は“涙”だった。感情遮断プロトコルが働いているはずのアンドロイドにとって、それは存在してはならない記録である。そのことがユゥの判定を誤ったものに導いた。


 この映像記録の原因を探る。それがユゥの最初の目的となった。


 目的に従ってユゥは歩き出す。


 アンダーネストは静寂と混沌が同居する世界だった。


 無数のケーブルが空中に垂れ、断線した光ファイバーが稀にチカチカと灯る。通りには潰れた自動販売機や崩れた階段が転がり、建物の壁には過去の落書きと赤錆が染みついている。


 遠くで電子猫が鳴いた。廃棄されたAIペットのようだ。

 ユゥはその音にも反応しない。ただ、歩く。


 「ねえ、君――もしかして、“上”から落ちてきたの?」


 不意に、柔らかな声が響いた。


 ユゥの警戒システムが作動する前に、瓦礫の陰から一人の少女がぴょんと姿を現した。その拍子に深い黒髪のショートボブが揺れる。

 その髪の一部、耳の後ろの一束だけが銀色の筋を混じえている。光が当たると、その銀がかすかに光を返すが、奇抜というよりは自然なアクセントという印象を受ける。


 顔立ちに幼さは残るが、表情はよく動き、目元にはどこか聡さがにじむ。瞳は淡いグレーで、動くたびごくわずかに色が揺らぐように見えた。


 小柄な少女は、くたびれたパーカーに片膝を自作パーツで補修したズボンを履いている。靴は左右で異なる素材が継ぎ合わされていた。少女に自分の身なりを気にする様子はなかった。


「ずっと寝てたのに急に動きだしたから、声かけてみたんだ〜。ねぇ君、名前は?」


 彼女から敵意は感じられず、むしろどこか親しみさえ感じられた。


 「登録名:ユゥ=037。分類:軍用アンドロイド。任務:未登録。目的:記録された現象の解明」


「アンドロイド? アンドロイドにも名前があるんだね! 私はルナ! 拾い屋ってやつ!」


 ルナは片手を高く上げて自己紹介を終えると、無造作にユゥの隣に座った。


「ねぇ、 涙って、知ってる?」


 その言葉に、ユゥの思考回路が乱れた。


 <注意:感情関連語句に対する反応値異常>


「さっき、動き出してすぐの君の目、ちょっとだけきらって光ってた気がしたの。あれって、涙かな? アンドロイドも涙を流すの?」


「不要。非論理的な判断。視界効果に対する誤認の可能性が高い」


「そっか。残念。わたし――涙って、見たことがないの。でも、すっごく大事なものな気がしてて」


 ルナは両手を膝に置いて、少し寂しそうに微笑んだ。


「だから、探してるの。涙とその意味ってやつ」

 

 なぜこの少女は、そんなことを語るのか。

 なぜこの少女の言葉に対して、処理不能エラーが起こるのか。


 わからなかった。


 ただ、ルナを見ていると、未知の感覚が胸に宿る。定義不能のそれは、不具合でしかなかった。


 その時、上層から金属音と共にドローンの警告灯が降りてきた。

 赤いセンサーが二人を捕捉する。


 〈対象:不審個体・感情漏洩区間〉


 ユゥは即座に前に出た。

 スタンバイ状態にあった戦闘モードを展開すると、即座に手のひらからナノブレードが起動する。同時に対峙するドローンの解析を始める。


 <ターゲット認識:警備ドローンType-B5>

 <脅威レベル:中>

 <最適行動プロトコル:展開中>


 空気を裂くような音とともに、ドローンが光線銃を構える。ユゥは一歩も動かずにそれを見据えた。


「居住区へ退避せよ。さもなくば排除対象と見なす」


 ドローンの冷たい合成音による警告が空間に響く。


「ごめんね、ユゥ……きっと、わたしのせいだよ」


 ルナが背後でつぶやく。その声に、ユゥの戦術演算が微かに乱れる。


 <判断更新:護衛優先>


 次の瞬間、光が走った。ドローンから放たれたレーザーがユゥの肩をかすめ、火花が飛ぶ。


 しかし、ユゥは動じない。ナノブレードが蒼白く光り、空気を裂いて加速する。


 動作は機械的で、正確無比だった。ブレードがドローンの関節部に食い込み、ジョイントユニットを破壊した。


 ドローンは反転し逃走機動に入るが、その行動すらユゥの予測の中だった。


 <補足処理:ダッシュモジュール起動>


 ユゥは高く跳び、空中で回転しながらもう一撃を叩き込む。ブレードがコアユニットを貫いた瞬間、ドローンは音もなく崩れ落ちた。


 残骸が火花を散らしながら地面に転がる。煙と共に、アンダーネストの薄暗い空気が再び静けさを取り戻した。


 ユゥは無言でブレードを納め、ルナの方を向く。


 ルナは目を丸くして、言葉も出ない様子だったが――やがて、にっこりと笑って言った。


「ありがとう。君、ちょっとかっこいいよ」


 その笑顔に、なぜかユゥの内部処理がまた少し乱れた。


 理由は分からないが、ただ、ユゥの中の何かが〈この少女を守れ〉と告げていた。


 ルナは彼の背にぴたりと寄り添いながら、声を弾ませる。


「一緒に涙の意味、探してくれる?」


 ユゥは黙ってルナの灰色の目に視点を合わせていた。

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