『月と時の古書店 ~失われた記憶の守り人~』

漣 

第1話 雨音と忘れられた約束 1

第1章 雨の午後

六月の梅雨空は重い雲に覆われ、午前中からぽつりぽつりと降り始めた雨粒が、午後になって本格的な雨に変わっていた。商店街を歩く人々は足早に雨宿りできる場所を探し、傘を差した者たちは雨音に急かされるように歩いている。

そんな雨の日の商店街の奥、普段は古い建物の間にある何でもない空き地に、今日もまたあの不思議な古書店が静かに佇んでいた。

「月と時」

木製の看板には、まるで書道の達人が筆で書いたような美しい文字が刻まれている。建物自体は決して新しくはないが、どこか懐かしい温もりを感じさせる佇まいだった。窓ガラスは少し曇っていて、中の様子は外からはぼんやりとしか見えない。でも、暖かい光が漏れているのがわかる。

店内では、背の高い本棚が壁際にずらりと並んでいた。古書の独特な匂い―紙とインクと時間が織りなす、どこか郷愁を誘う香り―が店内に満ちている。天井からは古風なシャンデリアがぶら下がり、柔らかな光を投げかけていた。

その光の下で、一人の美しい男性がカウンターの椅子に座り、頬杖をついて外の雨を眺めていた。西園侑にしぞの ゆう27歳。黒髪が自然に流れ、整った顔立ちには憂いを帯びた美しさがある。特に印象的なのは長い睫毛で、時々瞬きをするたびに影を作る。白いシャツの袖を少しまくり上げ、首元のボタンを一つ外している様子は、まさに古典小説の挿絵から抜け出してきたような美貌の持ち主だった。

「冴〜」侑が甘えるような声で呼びかけた。「お茶入れて〜。それから、君も僕の隣に座って〜」

その声に応えて、店の奥から一人の青年が現れた。如月冴きさらぎ さえ、22歳。侑よりも小柄で華奢な体つき、絹糸のような薄茶色の髪が肩にかかっている。大きな瞳は澄んだ琥珀色で、整った顔立ちは一見すると美少女と見紛うほどだった。エプロンを身に着け、手には古い本を抱えている。

「また仕事をサボって」冴は呆れたような表情を見せながらも、その眼差しは優しかった。「お客様がいらっしゃるかもしれないでしょう?本の整理もまだ終わっていませんし、昨日お預かりした記憶の本も整理が必要です」

「でも雨が降り始めたばかりだから、まだ誰も来ないよ」侑は立ち上がると、まるで猫のような滑らかな動きで冴の後ろに回り込んだ。「それより、君の方が僕には大切だから」

そう言って、侑は冴の細い腰に腕を回した。冴の体は小さく震え、抱いていた本を危うく落としそうになる。

「も、もう!」冴の頬が桜の花びらのような淡いピンク色に染まった。「お客様に見られたらどうするんですか!それに、みぃちゃんが見てますよ」

侑が視線を向けると、店の隅にある古いソファの上で、黒猫のみぃちゃんがこちらを見ていた。推定10歳の女の子で、艶やかな黒い毛並みと金色の瞳が美しい。今はまん丸な体を丸めて座り、まるで「また始まった」とでも言いたげに「にゃあ」と小さく鳴いた。

「みぃちゃんは理解してくれるよね?」侑はにっこりと笑って猫に話しかけた。「僕が冴を愛してるって」

「侑さん、本当にもう…」冴は困ったような、でもどこか嬉しそうな表情を見せた。

「見られても構わないよ。君は僕の大切な恋人だもの」侑は冴の耳元に唇を近づけて囁いた。「世界中の人に知られても構わない」

冴の耳まで真っ赤になる。侑の温かい息が耳にかかると、体中に電流が走ったような感覚になる。

「そ、そんなこと言って…」

その時、外の雨音が少し強くなった。と同時に、店の入り口で鈴の音が響いた。古い真鍮製の鈴で、来客を知らせる澄んだ音色だった。

重い木製の扉がゆっくりと開き、濡れた傘を持った女性が恐る恐る中に入ってきた。40代半ばくらいだろうか。茶色い髪は雨で少し湿り、疲れた表情をしている。目元は少し赤く腫れていて、最近泣いていたことがわかった。

「あの、こちらは…」女性は戸惑いながら店内を見回している。本棚の高さや、古書の量、そして何より店内に漂う不思議な雰囲気に圧倒されているようだった。

侑は慌てて冴から離れ、店主らしい穏やかで上品な表情を作った。冴も慌ててエプロンを直し、本を胸に抱え直した。

「いらっしゃいませ」侑の声は先ほどの甘えた調子とは打って変わって、落ち着いた大人の男性のものだった。「雨の日の古書店『月と時』へようこそ。私は店主の西園侑と申します」

「こちらは如月冴です」冴も丁寧にお辞儀をした。「何かお探しの物はございますか?」

女性は安堵の表情を浮かべた。きっと、この店を探して雨の中を歩き回っていたのだろう。

「やっぱり、ここだったんですね」女性の声には安心感と同時に、どこか切ない響きがあった。「ずっと探していました。こちらで…失くしたものを取り戻していただけると聞いたのですが」

侑と冴は顔を見合わせた。二人の間には、言葉にしなくても通じ合う何かがあった。

「どうぞ、奥の席でゆっくりとお話を聞かせてください」侑が優しく案内した。「冴、お茶の準備をお願いします」

「はい」冴は嬉しそうに微笑んで、奥のキッチンへと向かった。

みぃちゃんは相変わらずソファで丸くなっていたが、新しい来客に興味を示すように少し耳を立てていた。

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