第2話 顔が消える

月曜日の朝、出社すると、俺はひとつの“壁”を越えていた。


「おはようございます」と挨拶してきた後輩の顔が、完全に俺だった。


もう、「似てる」とかそういうレベルじゃない。

笑いジワの位置も、鼻筋の角度も、まぶたの重さも——鏡に映る自分と寸分違わない。


だが後輩は平然としている。俺の顔で、俺の表情で、俺の口調で話す。


「今朝、電車遅れてましたよね〜俺もギリでした」


違う、お前は“俺”じゃない。名前も違うし、生い立ちも違う。

でも——お前の顔は、どう見ても、俺だ。


上司も、同期も、受付の女性も。

エレベーターに乗り合わせた営業部の知らない人まで、みんな“俺の顔”だった。


耐えきれなくなって、トイレに逃げ込んだ。


鏡の中の“俺”たちが、三面鏡にびっしりと並んでいた。

手を洗うフリをしながら、そっと顔を見比べる。やっぱり全員、俺だ。


——俺だけじゃなかった。


気づけば、社内チャットには「顔が似てる」なんてレベルを超えた書き込みが飛び交っていた。


「うちの部署、クローン多すぎw」

「マジで誰が誰か分からん」

「名札ないと間違えるんだが」


その空気は妙に明るい。

誰もこの異常を“本気で怖がっていない”。

まるでバグったゲームを面白がっているようなノリ。


テレビをつければ、ワイドショーが「世界中で報告される“同顔現象”」なんて取り上げていた。

インタビューを受ける一般人たちの顔も、みんな俺。


「不思議ですね〜、でもこれって流行りなんですかね?」

「美容整形の新技術かと思ったんですけど(笑)」


笑ってる。

気持ち悪いほど、同じ顔で。


その日の夜、夢を見た。


見知らぬ街の交差点に、無数の俺たちが立っている。

信号が変わって、一斉に歩き出す。

誰も喋らない。誰も笑わない。みんな、同じ顔で、無表情。


目が覚めると、スマホには通知が溢れていた。


「顔認証が使えません」

「端末が本人を認識できません」

「セキュリティエラー:識別情報が重複しています」


顔で個人を識別していたすべての技術が、破綻しはじめていた。


会社の入館ゲートでも、社員証と顔が一致しないと弾かれた。

後ろに並んでいた同僚が言った。


「いやー、困るよな。お前も“俺顔”か」


“俺顔”。

そんな言葉が、いつのまにか市民権を得ていた。


俺は家に帰って、昔の写真を引っ張り出した。

学生時代、家族旅行、初任給で買った腕時計と一緒に笑う自分。


そこに写っているのは、確かに俺だ。

でも、今鏡の中にいる“俺”は、そいつらとほとんど変わらない。

それなのに、なぜこんなにも不安になる?


俺の顔は、俺のものだったはずだ。


それが今や、誰のものでもなくなった。


——“俺の顔”のコピーが世界を埋め尽くしていく。


SNSでは「#俺顔現象」「#みんな俺」なんてタグがトレンド入りしていた。

その下には、世界各地の“俺”たちが投稿した写真が並ぶ。

ニューヨークの路上、パリのカフェ、上海の地下鉄、ナイロビの市場——

全部、同じ顔。


正直、吐きそうだった。


でも、もっと恐ろしいのは——

その“顔”が、自分とまったく同じだと、もう自信が持てなくなってきたことだ。


鏡を見ても、「これは本当に俺か?」と思ってしまう。

何百万人といる中の、どの“俺”なのか、わからなくなる。


もしかしたら、俺は俺じゃなくて、誰かがコピーした“ひとり”なのかもしれない。

あるいは、元々の“俺”はもうどこかで消えていて——

今ここにいるのは、33番目の“偽物”なのかも。


そう考えた瞬間、身体の芯から冷たい何かが這い上がってきた。


自分の名前も、記憶も、声も……顔が奪われた今となっては、全てが脆い幻のようだ。


「俺って……誰だ?」


自分の声でそう呟いた。

けれど、それすらも誰かの声に聞こえてきた。


——この世界には、“俺”が多すぎる。


そして、俺はその中の、ほんのひとりにすぎない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る