第120話 氷に刻む理
魔術騎士団本部、その一角に設けられた上席専用の執務室。
扉をくぐった瞬間、ユリウスは空気の質が変わるのを感じ取った。
部屋は広さこそ十分にあったが、装飾らしい装飾はほとんどない。壁際に並ぶ棚は整然としており、収められた巻物や資料は用途別にきっちりと仕分けられている。無駄な装飾品も、私物を思わせる調度も一切ない。あるのは、必要なものだけを効率よく配置した、研ぎ澄まされた空間。
正面の机には、わずかに紙束と羽ペン、そして――幾冊かの本が積まれていた。
その背表紙に視線を移した瞬間、ユリウスは息を呑む。
それは紛れもなく、自らが著した理論魔術の書だった。
思わず足を止めたユリウスに、机に腰掛けていたエレオノーラが視線を向ける。銀青の髪が光を受け、氷のように冷ややかに揺れた。
「……手に入るものは一通り取り寄せて、目を通した」
淡々と告げる声は、感情を交えずに事実だけを述べるようだった。
彼女は積まれた書を指先で軽く叩き、わずかに口元を動かす。
「なかなか面白い」
そう言うや否や、エレオノーラは机の上から視線を外し、掌を軽く掲げた。
詠唱はない。ただ微かな魔力の脈動が室内を震わせ、次の瞬間――彼女の手のひらに紅蓮の火が灯った。
だがそれは、燃え広がることも、熱を撒き散らすこともない。まるで透明な器に閉じ込められたかのように、炎は静かに揺らめきながら、その場に保たれていた。周囲の空気は焦げることなく、室温も変わらない。ただ「熱量を場に束縛する」という理論そのものが、目に見えるかたちで顕現していた。
ユリウスの瞳がわずかに見開かれる。
声にならぬ驚きが胸を満たし、言葉が喉にひっかかったまま出てこない。
エレオノーラは炎を見つめ、ふっと息を吐く。
すると炎は一瞬で霧散し、何事もなかったかのように空気へ溶けていった。
「私は氷が好きなの」
彼女はそう告げ、机に積まれた著作へと目を落とした。
冷え切った横顔に、わずかな寂寥が影を差す。
「でも、ここには一つもなかった」
静寂が流れる。ユリウスは息をのみ、彼女の次の言葉を待った。
やがて、エレオノーラの視線がまっすぐにユリウスへと戻る。湖のように澄んだ瞳が、鋭くも揺るぎなく彼を射抜いた。
「だから教えて。……私にふさわしい、あなたの魔術を」
ユリウスの胸は高鳴っていた。
この短い時間で、自らの難解な著作を読み解き、理解し、さらに実践まで示してみせた才覚。
言葉にならぬ驚嘆と同時に、思考の奔流が頭を駆け抜けていく。
氷――これまで真正面から扱うことの少なかった属性。
だが、冷却、凝結、結晶化……物理的にも魔術的にも無限の応用が広がる。
目の前の存在は、その可能性を共に具現化できるに違いない。
抑えきれない興奮のまま、ユリウスは言葉を発した。
「──是非、お手伝いさせてください。リヒテンラーデ卿」
その声音に、エレオノーラはわずかに瞳を細める。
次の瞬間、冷たくも淡い声音が返ってきた。
「……エレオノーラ。教えを乞うのに、堅苦しい呼び名は不要よ」
それは強制にも似た響きだった。
だが不思議と、突き放す冷たさではなく、彼女なりの誠意の形に思えた。
ユリウスは一拍の沈黙を置き、わずかに息を整えた。
「……わかりました。エレオノーラ」
その声音に、彼女は小さく瞬きをしただけで、特に反応を示さなかった。冷えた空気の中に、承認とも無関心ともつかぬ静けさが漂う。
胸に渦巻く興奮は尽きなかった。だが同時に、浮かぶ考えをただ口にすれば、無秩序に散ってしまう危うさも理解していた。
ユリウスは短く息を吐き、言葉を選ぶ。
「……ただ、今すぐに答えを出すのは難しいのです。考えが溢れすぎています。一度整理をさせてください。明日まで待っていただけますか」
そう言いながら、懐から数冊の資料束を取り出した。
簡素な綴じ紐でまとめられた紙群。王城の研究室から、この執務室に来る前に持ち出してきたものだった。
「これは……未発表の研究です。研鑽会や個人的な試行を記録した資料。粗削りですが、理論を形にする手がかりにはなるはずです」
机の上に置かれた資料に、エレオノーラの蒼い瞳が静かに注がれる。
その表情は変わらぬ冷ややかさを保ちながらも、瞼の奥で微かに光が宿った。
エレオノーラは机に置かれた資料へ視線を落とし、しばし黙していた。
やがて、長い睫毛がわずかに伏せられ、静かな声が零れる。
「……ありがとう。楽しみにしているわ」
氷細工の人形を思わせるその顔立ちが、ふと綻ぶ。
白磁のごとき頬にごく淡い色が差し、湖面のように澄んだ瞳が柔らかに揺れた。
それはほんの一瞬の微笑。
冷ややかな氷壁にひびが入り、秘められた温度が顔を覗かせたかのようだった。
──その笑みは、氷の彫像に命が宿ったかのように、あまりに鮮烈だった。
ユリウスは静かに頷き、言葉を返すことなく立ち上がった。
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