第117話 制御された奔流
訓練場に漂う空気は、まだ熱を帯びていた。
ナギア=クローデルが放った術の痕跡は、すでに結界に吸収され、石畳には何ひとつ残ってはいない。だが、その正確無比な軌跡は、見守る者の胸に鮮やかな印象を刻んでいた。
沈黙が支配する。
候補者たちは誰ひとり声を出さず、次に呼ばれる名を待っていた。緊張は靄のように濃く、吐息すらも音にしてしまうことを憚らせる。
やがて、監督役の騎士が声を張る。
「──マクシム・ヴォルテクス!」
その名が響いた瞬間、場の空気がわずかに動いた。
列の中ほどから、一人の青年が歩み出る。
金の髪を無造作に撫でつけ、鋭い灰青の瞳で前を見据える姿。彼の立ち姿はどこか気怠げに見えながらも、全身に緊張の色を纏っていた。
(……マクシム)
ユリウス=ヴァレンティナの銀の瞳が、懐かしさを帯びて彼を追った。
かつて学術院の講義室で雷を暴れさせ、言葉にできない感覚をもどかしげに抱えていた少年。
あのときの未完成な雷は、果たして今、どのような形を見せるのか。
マクシムは深く息を吐いた。白い靄が口元から流れ、冷えた朝の空気に溶けていく。
心臓の鼓動は早い。だが、それは恐れからではなかった。
彼の中で雷がざわめいている。暴れたがり、駆け出したがっている。だが同時に、今ならそれを導けるという確信があった。
石畳の中央に立ち、軽く拳を握る。
掌に宿る魔力が、わずかな火花となって散った。
周囲の候補者たちが、息を呑む。
ナギアは無意識に身を正し、視線を外さずにその姿を追った。
雷を感覚で掴み、それを理論で補強する。
その両方を持ち合わせている者など、彼女の知る限り、ひとりしかいない。
マクシムは、視線を上げた。
正面に並ぶ標的の石柱。
かつて学術院で挑んだ魔力ゴーレムの影が脳裏に蘇る。あのときは、ただ必死に雷を叩きつけるしかなかった。
けれど、いまは違う。
「……見ててくれよ」
小さく呟いた言葉は、誰に届くこともなかった。
だが、彼自身の鼓動と雷鳴が、それに応えるように高鳴っていた。
マクシムは目を細め、深く息を吸い込んだ。
冷えた空気が肺に満ち、血管の隅々まで清冽な緊張を行き渡らせる。
次の瞬間、彼の全身から淡い紫電がにじみ出した。
髪が逆立ち、制服の袖がわずかに震える。大気そのものが帯電し、訓練場の石畳に細やかな光が走った。
雷は荒ぶる。
ひとたび手を離せば、ただ暴れて散じるだけの獣。
――昔の自分なら、ここで押さえきれず、力任せにぶつけるしかなかった。
だが、今は違う。
マクシムは掌をわずかに開き、指先で空間をなぞるように動かした。
すると、走る紫電が軌道を描く。螺旋を成し、枝分かれし、絡み合いながら一本の「線」として収束していく。
(雷は、暴れるものじゃない。……道を与えてやれば、そこを走る)
頭の中に、ユリウスの声が甦る。
“感覚を形にしろ。式に落とせ。君が見ている光景を、数式で、理屈で支えてやるんだ”
マクシムは奥歯を噛み締めた。
体の奥底から湧き上がるざわめきを、冷静な思考で束ねる。
雷はただの力ではない。
電流、電圧、抵抗。空気分子が裂け、プラズマの道筋が開かれる。
彼の掌の前に、編まれていくのは光の鎖。
細やかな稲妻が鎖環をつなぎ、振動しながら確かな形を帯びていく。
「……よし」
吐息とともに、彼は拳を突き出した。
轟音。
紫電の鎖が、空気を切り裂きながら標的へと奔った。
雷は一本の矢ではない。絡み合い、螺旋し、束ねられた雷鎖が石柱を絡め取り、内側から打ち砕く。
標的が瞬く間に白熱し、轟音とともにひび割れが走る。
爆ぜる光の粒子が四方へ散り、訓練場全体が紫に照らし出された。
――
それはかつて学術院で見せたものと同じ技。
だが、比べものにならないほど緻密で、理路整然とした「道」を持っていた。
候補者たちがどよめきかけ、しかし声を呑み込む。
場を支配するのは、雷が残した焦げた匂いと、耳に残る残響だけだった。
ユリウスは、思わず目を見張っていた。
感覚に頼るだけの粗削りだった雷。
それがいまや、理論の骨組みを纏い、確かな形を得ている。
銀の瞳がわずかに細められ、口元に小さな笑みが浮かんだ。
雷鎖が収束し、標的の石柱が粉々に砕け散った瞬間――訓練場を覆っていた靄が一気に吹き払われたかのように、空気が澄み渡った。
白い残光がゆっくりと消えていく。
沈黙。
誰もが息を呑み、その光景を目に焼き付けていた。
ただ一人、マクシムだけが肩で荒い呼吸を繰り返し、拳を握りしめたまま立っている。
「……見事だ」
最初に言葉を発したのはレオニスだった。低く、しかしはっきりとした声音。
「制御を伴った雷撃……ここまでの完成度を見せられる者は、王国でも指折りだろう」
その言葉に、マクシムは口元を吊り上げる。だが誇示するでもなく、照れ隠しのように視線を逸らすだけだった。
ユリウスは、静かに頷いた。
「よくここまで仕上げたね、マクシム」
その声音には、かつて学術院で共に歩んだ日々を思い起こす懐かしさと、教え子の成長を見届ける喜びが混じっていた。
――そして、その一部始終を見ていたナギア。
淡い紫の髪が微かに揺れ、彼女の瞳は標的の跡から離れられなかった。
胸の鼓動が強く響き、呼吸がわずかに乱れる。
普段の彼女なら、外には決して出さぬ感情。
けれど今、この場では抑えられなかった。
指先が小さく震えた。
その震えを隠すように両手を組むが、頬に熱が差しているのを自覚する。
「……すごい」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど大きかった。
隣の候補生がちらと目を向けたが、ナギアは気づかない。
彼女の視線はただ、雷の余韻をまとったマクシムの背中に注がれていた。
ナギアの胸の内に芽生えたものは、憧れか、悔しさか、それとも新たな決意か。
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