第105話 小さな家の灯り

 ──王国北部の商都〈ノルデン〉。

 朝の街路は、焼きたてのパンの香りに包まれていた。

 石畳の上を行き交う人々が足を止め、通りの角にある小さな店の前へと目をやる。


 看板には麦穂の絵。

 開け放たれた扉からは、湯気を含んだ香ばしい匂いがあふれ出していた。


「お父さーん、もういい?」

 小さな声が、店の奥から弾んだ。


 答えたのは、白い粉を腕いっぱいにまとった大柄な男だ。

「よし、いくぞ――高い高い!」


「きゃあっ!」

 娘の笑い声が店内に響く。小さな体がひょいと宙に舞い、陽射しを受けて頬が赤く染まる。

 受け止められた娘はそのまま父の胸にしがみつき、はにかんだ。


 男は大きな掌で娘の背を支えながら、苦笑を浮かべる。

「まったく……ついつい甘やかしちゃうんだよなぁ」


 娘はくすぐったそうに身をよじり、顔を寄せて笑った。

「えへへ……でもわたし、お父さんだいすき!」


 外からその光景を眺めていた客たちの頬も、自然と緩んでいく。

 温かな家庭の一場面――誰もがそう思う、ごく当たり前の朝であった。


 娘を抱えたまま店の奥から出てくると、男は軽く咳払いをして客たちに頭を下げた。

「お待たせしました。今日は蜂蜜パンと、胡桃の黒パンもありますよ」


 木の台の上に籠を並べると、香ばしい匂いがさらに広がった。

 待っていた人々の顔に、自然と笑みが浮かぶ。


「おお、ここの蜂蜜パンは子どもが大喜びなんだ」

「昨日の胡桃パンも美味しかったよ。うちの婆さんがもう一度食べたいってさ」


 客の言葉に、男は大きな手で後頭をかきながら照れ笑いを浮かべた。

「いやいや、たいしたもんじゃありませんよ。うちの窯が頑張ってくれてるだけです」


 その横から、布巾で手を拭きながら妻が現れた。

 栗色の髪を後ろで結い、働き者らしい笑みを浮かべている。

「またお客さまに謙遜してるのね。……あなたの腕じゃなきゃ、こんなに毎日行列はできないわ」


 娘も胸を張るように父の肩の上で叫んだ。

「そうだよ! お父さんのパンが一番なんだから!」


 店内は一層和やかな笑いに包まれる。

 朝陽が窓から差し込み、粉塵の粒が金色に舞っていた。


 妻は籠に新しいパンを詰め直しながら、ふと夫に目をやった。

「今日は少し冷えるわね。配達のときは厚手の外套を着てちょうだい。風邪を引いたら大変だから」


 男は軽く片眉を上げ、冗談めかして言った。

「心配性だなぁ。俺は丈夫だって知ってるだろ」


「丈夫だからって、あなたが倒れたら店も回らないのよ」

 妻の声には小さな呆れと、大きな愛情が滲んでいた。


 娘は父の首にぎゅっとしがみつき、笑顔で言う。

「ねぇ、きょうも配達いっしょに行っていい? わたし、お手伝いできるよ!」


 男は目を細め、わざと困ったように唇を曲げる。

「んー……どうしようかなぁ。お手伝いのつもりが、お菓子屋さんに寄り道しちゃうんじゃないのか?」


「ちがうもん! ちゃんと運ぶよ!」

「ははは、わかった、わかった。じゃあ、配達のあとにお菓子屋さんへ寄ろうな」


 娘の歓声が店中に響いた。

 その声は外までこぼれ、通りを行く人々も思わず足を止め、笑みを浮かべた。


 ──なんてことのない、幸せな朝。

 その空間には、戦火も疑念も何ひとつなかった。


 店先の忙しさが一段落すると、男は娘を外套で包み込み、肩車の形から下ろして手をつないだ。

「じゃあ、行くか。今日も重いぞ、頼りにしてるからな」


「うん!」

 娘は胸を張り、小さな腕で抱えきれないほどの籠を受け取った。中には蜂蜜パンと胡桃パンがぎっしり。


 石畳の路地を歩き出すと、朝の街はすでに賑やかだった。

 行商の声、馬車のきしむ音、雪をかぶった屋根からしたたる水滴の音。

 ノルデンの冬は厳しかったが、人々の暮らしは逞しく、温かな色に満ちていた。


 馴染みの顧客に立ち寄ると、娘が先に声を張る。

「こんにちは! パン屋です!」


 扉が開き、老夫婦が顔を出す。

「おや、また来てくれたのかい。今日は孫も来ててね、蜂蜜パンを楽しみにしてるんだよ」


 娘は得意げに籠からパンを差し出し、男は代金を受け取りながら笑った。

「いつもありがとうございます。冷めないうちに召し上がってください」


 再び街を歩き出すと、娘は手を振りながら小声で言う。

「おじいさんたち、すごく嬉しそうだったね」

「そうだな。パンってのは腹を満たすだけじゃない。誰かを笑顔にするもんだ」


 娘は「へへっ」と笑い、籠を抱え直した。

「じゃあ、わたしもお父さんみたいなパン屋さんになる!」


 男は目を細め、優しい声で返す。

「いいな、それ。きっと街で一番の店になるぞ」


 石橋を渡ると、小川のせせらぎが足音を包み込む。

 途中で出会う人々が「おはよう」「今日はどこまで行くんだい」と声を掛けるたび、娘が元気よく応じ、男は微笑んで軽く会釈を返した。


 昼近くになり、最後の配達先へ向かう道で、娘は籠を見下ろして「あと少しだね」と言った。

「そうだな。戻ったら母さんに手伝ってもらって、また仕込みだ」


 娘は少し唇を尖らせる。

「でも……お父さん、お仕事ばっかり」

「はは、そう言うな。お前の笑顔が俺の力なんだからな」


 大きな手が娘の頭を軽く撫でた。

 その手は粉で少し白く、温かかった。



 日がすっかり傾く頃、男は店先の木札を裏返し、「本日終い」と記された方を出した。

 娘が軽やかに「ただいまー!」と声を張り上げながら先に家の戸を開ける。男も荷車を片付け、白い粉のついた手を拭きながら後に続いた。


 小さな家の中には、香ばしいスープの匂いが満ちている。

 妻が土鍋の蓋を開け、湯気とともに野菜の甘い香りが立ちのぼった。テーブルには、切り分けられた焼きたてのパンと、煮込んだ豆や根菜の皿が並んでいる。


「おかえりなさい。今日もよく売れた?」

 妻が微笑みながら問いかける。


「おう、完売だ。ご近所の連中が“明日はもっと早く並ばなきゃな”ってこぼしてたくらいさ」

 男は豪快に笑い、手を洗って席についた。


 娘は待ちきれず、椅子によじ登って大声をあげる。

「お父さんのパンはね、ほんとにおいしいんだよ! お母さんも言って!」


「ええ、もちろん。あなたの焼くパンは、街で一番よ」

 妻がからかうように笑うと、男はわざとらしく首をすくめてみせる。


「おいおい、甘やかしすぎると、この子までふくらんじまうぞ」


 娘はぷくっと頬をふくらませ、すぐにけらけらと笑った。

「ふくらんでもいいもん!」


 その無邪気な声に、食卓はさらに明るくなる。

 スープをよそい、焼きたてのパンをちぎり合い、笑い声と湯気が小さな家を満たしていく。


 パンの柔らかさに娘が目を細め、妻が満ち足りたように夫の横顔を見やる。

 男はその二人を眺め、穏やかな微笑を浮かべながら、静かに言った。


「どんなご馳走より、この笑顔が一番だ」


 スープの湯気が落ち着き、食卓にようやく静けさが戻った頃。

 妻がふと思い出したように立ち上がり、棚から小さな封筒を取り出した。


「あ、そうだわ。あなたに手紙が届いてるの。珍しいわね」


 軽い声音に、男は目を瞬いた。

 差し出された封筒を受け取り、指先で封蝋をなぞる。


 ――その瞬間だけ、食卓の灯りが揺らいだかのようだった。

 笑みを消した男の瞳は、炎を映さず、ただ封蝋の刻印をじっと射抜いている。

 沈黙。短いはずなのに、妙に長く感じられる一拍。


 娘が首をかしげた。

「お父さん?」


 はっとしたように男は顔を上げ、すぐにいつもの柔らかな笑みを浮かべた。

「はは、なんだろうな……ずいぶん久しぶりに手紙なんて受け取ったからさ」


 わざとらしく肩をすくめて見せ、娘の頭を撫でる。

「きっと古い知り合いか、客の誰かの礼状かもしれないな」


 そう言って封筒を脇に置くと、男は再びパンを手に取り、話題を軽く流した。

「さあ、まだ食べ足りないやつはいないか? お父さんの分も分けてやるぞ」


 娘は歓声を上げ、妻は微笑んだ。

 食卓には再び温かな笑い声が戻る。

 ただ、封蝋に沈んだ影だけが、そこに静かに横たわっていた。




 夜も更け、家族が寝静まった後。

 パン屋の厨房には、粉の匂いと残り火のぬくもりが漂っていた。

 明日の仕込みのために捏ね台を整えていた男は、ふと手を止める。


 棚に置かれた封筒。

 ゆっくりとそれを取り上げると――その仕草からは昼間の朗らかさが消えていた。


 指先が封蝋をなぞる。わずかな力で、音もなく割れる。

 まるで何百回も繰り返してきた儀式のように、洗練された所作だった。


 鋭く細められた眼差しは、狩人が獲物を測る時のそれ。


 封を解かれた紙には、ありふれた文面が並んでいる。

 「北の森は実りが豊かです。来る冬も心配はないでしょう」

 「来月には商人が集まる祭りが開かれるとか」


 一見、田舎の親戚が送る便りに過ぎなかった。

 だが男は視線を走らせると、素早く小さな木片を取り出し、蝋燭の煤をこすりつける。


 煤の膜の上に、別の文字が浮かび上がった。


 ――〈ノルデンに設置された転移門を破壊せよ〉

 ――〈混乱に乗じて補給を断て〉

 ――〈同時に前線にて“鉄の槌”が動く〉


 男は紙を読み終えると、淡く笑みを浮かべた。


「……動く時が来たか」


 低く呟き、紙を蝋燭の火に翳す。

 炎に呑まれた指令は灰となり、床に散った。


 残されたのは、静まり返った厨房と、鋭い眼光を宿す一人の男。

 その姿は、昼間パンを焼き、娘を笑顔にしていた父親とは、まるで別人だった。

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