第57話 還る場所はここにあった
──時は満ちた。
演算はすでに完了していた。
【偏位展開式】による魔力波の収束は安定し、転移座標も完全に固定されている。
ユリウスは最後の確認を終え、魔術制御盤の上に手を添える。
あとは、意志を持って歩を踏み出すだけ。
──だが。
その瞬間、ドアノブがわずかに回る音がした。
「……!」
こんな時間に、一体誰が。
ライラは通常、聖導院への報告書作成のため、今の時間帯は詰所にいるはずだった。
彼の生活サイクルと行動パターンは、ユリウスが精緻に把握していた。
それを避けるように計画は立てられ、準備は進められたはずだった。
だが──今日は、ほんのわずかに、ずれた。
ギィ、と扉が開く。
そこに現れたのは、銀灰の髪に黒外套をまとった細身の青年──ライラ=シェルグレイだった。
「……ユリウス殿?」
淡い声。感情の温度を抑えた、いつもの調子だったが──
視線が、制御盤に走る演算術式の残光を捉えた瞬間、その目がわずかに見開かれた。
「これは……これは、いったい」
判断は、一瞬だった。
このまま転移を中断すれば、術式の解析は避けられない。
転移座標を知られれば、次の機会は──もう、二度と来ない。
ユリウスは、心の中で息を止めるようにして──まぶたを一度、閉じた。
「……すまない、ライラ」
彼の指先が、魔術制御盤上の術式を撫でるように走った。
発動されたのは、雷撃魔術。
だが、それは単なる電撃ではなかった。
かつてユリウス自身が開発したその術式は、《魔力共振》と《神経遮断》の複合理論を基に再設計され、さらに研ぎ澄まされた“最適化版”である。
対象は、意識のみに絞った。
熱量は極限まで抑えられ、皮膚への損傷も、神経伝達への後遺症も最小限。
眠るように、穏やかに意識を落とす──それが、この術の目的だった。
ビッと、小さな音が走る。
ライラの身体が、ほんのわずかに震え──音もなく、その場に崩れ落ちた。
ユリウスはすぐさま駆け寄り、呼吸と脈を確かめる。
正常。術式は完璧に機能していた。
だが、そこにはわずかな痛みが残った。
「……君は、本当に、優秀だった」
呟きは誰にも届かない。
ライラの整った顔に手を伸ばしかけ──その手を、空中で止めた。
「魔術に対して誠実で、理論に対して真摯だった。……何より、自分の職務に対して、真っ直ぐだった」
視線が一度だけ、彼の銀灰の髪を撫でた。
「……出会う場所が、違っていたなら」
それ以上の言葉は、喉を通らなかった。
敵としてでも味方としてでもなく、
ただ“研究者”として、互いの理論をぶつけ合える関係だったなら──
きっと、ともに遥か先の真理にまで、届いていただろう。
ユリウスは視線を落とし、そっと目を閉じる。
仮面を脱ぐことはなかった。だがその奥で、彼は確かに、祈りにも似た想いを胸に刻んだ。
静かに立ち上がる。
足元には、崩れ落ちたライラの姿。
その横を通るたび、胸の奥がわずかに軋んだ。
──すまない。でも、これは逃避ではない。
君が“監視者”であることを選ばなかった世界が、どこかにあるのなら。
そのときは、また対等な場所で、言葉を交わそう。
研究机に戻ると、魔術制御盤の上に指を滑らせる。
術式はすでに構築済み。
発動のトリガーは、ユリウス自身の魔力による最終入力──ただ、それだけ。
「座標確認、偏差なし。魔力収束、安定域内……」
独り言のように呟く声が、静かな部屋に溶けていく。
「位相整合──完了。共鳴域、展開開始」
その言葉とともに、制御盤の術式群が淡く脈打ちはじめた。
銀色の光が、室内に満ちる。
それは火でも雷でもない。温度のない光、まるで星の鼓動が現実に染み出してきたかのような、静かで透徹した輝きだった。
制御盤の中心から、ゆっくりと浮かび上がるように、一対の光輪が現れる。
それは回転しながら、やがて楕円を描き──空間に“裂け目”が生じた。
何もないはずの部屋に、ひとつの“門”が開いた。
──転移術式、完全展開。
この瞬間、それは理論ではなく現実になった。
ユリウスは、一歩、前に進む。
床を踏みしめる音すら、光の波に吸い込まれていく。
空間の綻びが、呼吸するように淡く震え、彼の存在を受け入れるために開かれていく。
「……帰ろう」
誰にでもなく、あるいは──待つ者に向けて。
ユリウスはその“門”に向かって、まっすぐに歩を進めた。
足が、その光の縁に触れる。
重力がわずかに反転し、視界がゆらぎ、
身体が光に包まれていく。
肉体の“位置”という概念が、軌道を描くように再計算されていく。
だがそこには、恐怖も痛みもない。
あるのは、ただ──静かな、解放。
数多の試行錯誤、研究と失敗、恐れと決意。
すべてが今、この一歩のためにあった。
光が、彼を呑み込んだ。
それは滅びではなく、始まりだった。
新たな未来へと繋がる、“還るための術”だった。
──ユリウス=ヴァレンティナ、帰還転移開始。
幻想のごとく輝いていた空間の“門”が、静かに閉じる。
研究室には、再び沈黙が戻った。
ただひとり、床に横たわる青年を除いて。
光が──ほどけていく。
身体を包んでいた魔力の繭が、ゆっくりと剥がれ落ちるように、現実の輪郭が戻ってくる。
重力が定まり、空気の密度が肌に触れる感覚が蘇る。
五感がひとつずつ、確かさを取り戻していく。
そして、最後に──懐かしい“匂い”が鼻をかすめた。
乾いた書物の香りと、薬品と金属の微かな混合臭。
研磨された床の硬さ、照明水晶のやわらかな明かり。
──ここは、知っている。間違いなく、自分の“帰るべき場所”。
「……っ」
ユリウスは、そっと目を開いた。
目の前には、装置があった。
自身の設計による【
自らが造り上げた“座標”の要。その中央に、確かに立っている。
成功したのだ。
空間貫通型転移術式の完全発動。
封鎖された研究施設からの脱出。
そして──ラディス・フェルム、王都魔術学術院への帰還。
「……戻った、か」
声が震えた。
この一言に辿りつくまで、どれほどの時間と覚悟が必要だったか。
この静かな研究室に立っているという、ただそれだけの事実が、胸に込み上げる。
──だが、その余韻はすぐに破られた。
「ユリウス……ッ!!」
鋭く、そして張り詰めた声。
振り返るよりも早く、目の端に飛び込んできたのは、深紅の閃光だった。
カティア。
紅蓮の髪をなびかせ、瞳に驚愕と歓喜と、焦りを宿して駆け寄ろうとする彼女の姿。
だがその腕を、寸前で引き留めた影があった。
「ま、待ってくださいカティア様! まだ転移術式の残響があります……っ!」
リーネだった。いつもと変わらぬ淡白な声のはずなのに、その調子はどこか震えている。
それでも、彼女は冷静だった。
全身を強張らせながらも、魔力残留を読み取り、転移の安全確保を優先しようとしていた。
「でも……っ!」
叫びそうになったカティアの声が、わずかに震えた。
その奥に、張り詰めすぎた感情の臨界が見えた。
泣きたくて、叫びたくて、それでもこらえていた時間が、いま──崩れかけている。
そして、その背後。
セレスティナが立ち尽くしていた。
唇を押し当てるように指を添え、瞳からこぼれた涙を拭いもせず、ただ、ただ呆然と見つめていた。
信じたいと願い続けた帰還が、いま目の前で現実になっている。
彼女の感情がそのまま映ったかのように、光を帯びたままの瞳は、まるで夢の続きを見ているようだった。
──みんな、いた。
何度も、ここに戻るイメージはした。
数式に還元し、再現性を探り、術式を精査して、
……けれど、この場面だけは、ずっと思い描くことができなかった。
自分を信じて待ってくれた者たちの姿が、あまりにも──まぶしすぎた。
「……ごめん」
ぽつりと、ユリウスは呟いた。
震える声だった。
魔術の演算も、論理の整合も、敵の嘘も見抜いた彼の声が、いまはただ、言葉を失っている。
「……遅くなった」
その瞬間。
結界の残響が完全に消えたことを確認したリーネが、すっと手を放した。
そして次の瞬間。
「ユリウス……っ!」
カティアが、駆け込んでいた。
その腕が、強く、しがみつくようにユリウスの背にまわされる。
柔らかく、温かく、震えていた。
「……帰ってきてくれて、ありがとう……」
その声は、小さく、かすれていた。
どんな雄弁な演説よりも、どんな論理よりも──胸に刺さる言葉だった。
ユリウスは、彼女の背にそっと手を添える。
まだ実感は追いついていない。けれど、確かに彼はいま、戻ってきたのだ。
「カティア……」
名を呼ぶことすら、こんなに重く、尊いものだったのか。
「よかった……本当に……」
カティアの深紅の髪が、ユリウスの頬を撫でた。
その向こうで、リーネがそっと目を拭っていた。
口元を引き結びながらも、肩が微かに揺れている。
いつも無表情で冷静だった彼女が、こんな顔をするのを、ユリウスは初めて見た。
そして、セレスティナもまた。
ずっと抑えていた感情が限界に達したのか、目元を覆い、壁にもたれながらしゃくり上げていた。
その嗚咽には、感情がこぼれ落ちる音が混じっていた。
こんなにも、こんなにも──待ってくれていた。
「……戻ったよ」
静かに、ユリウスはもう一度呟いた。
それは自分自身に向けて。
そして、世界のすべてを信じてくれた彼女たちに向けて。
ローカス・アークの光は、もう消えていた。
だが──室内には、あたたかな輝きが、確かに満ちていた。
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