第52話 帰路は静かに染まる
誰からともなく、ふっと静かな吐息が漏れた。
ローカス・アークの内部では、【
転移対象となった書籍は、何ひとつ狂うことなく、研究室の机上に鎮座していた。
――理論は、現実になった。
その事実の重みを、ここにいる誰もが確かに受け止めていた。
「……今日は、これで解散としましょうか」
ユリウスの穏やかな声に、セレスティナがうなずき、リーネも小さく頷く。
「ええ。実地検証としては、これ以上ない成果ですわ。人体転移に向けた準備も、着実に前進しました」
エルネストは名残惜しそうにローカス・アークの外殻を見つめていたが、セオドアに肩を軽く叩かれて、ようやく我に返った。
「エルネスト。帰るぞ」
「むう……余韻というものを味わわせてくれんか、君は」
苦笑しながらも、エルネストは満足げに手帳を閉じた。
セオドアは疲れたように髪をかき上げ、ふとユリウスに視線を向ける。
「おまえも、今日は早く帰れ。倒れたら元も子もねぇ」
「心に留めておきます」
それぞれが研究室を後にする。
魔術棟を出たセレスティナとリーネの背が、傾きかけた陽光に照らされて並ぶ。茜に染まりつつある空が建物の壁面を淡く染め、風が二人の髪をやさしく撫でていった。
やがて、研究室にはユリウスひとりが残された。
彼は静かにペンを取り、研究ノートを開く。
術式の発動条件、魔力消費量、転移対象の質量と変位率、ローカス・アークの安定動作に関する観測結果。
一つひとつを丁寧に記しながら、ふと、ペンを止めて顔を上げた。
空間にはまだ、かすかな転移魔術の痕跡が残っている。淡い波紋のように光の粒子が漂い、静かに消えていく。
「……やっと、ここまで来たか」
その声には、確かな達成感と、ほんのわずかな寂しさが滲んでいた。
誰よりも冷静であろうとしてきた。
誰よりも先を見据え、歩み続けてきた。
けれど今夜だけは、少しだけ足を止めてもいい気がした。
静かな鼓動が、まるで心そのもののように室内に響いている。
ユリウスは椅子の背にもたれ、小さく息を吐いた。指先に残る微かな魔力の感触が、今日という一日の濃密さを物語っていた。
机の端には、転移されたエルネストの書籍がそのまま置かれている。そこに記された癖のある署名が、どこか誇らしげに見えた。
「……さて、帰ろうか」
白衣を脱ぎ、椅子の背に掛ける。
研究室の扉を開けると、夜の空気がふわりと流れ込んできた。
◇ ◇ ◇
月は半ば雲に隠れ、魔灯のほのかな光が回廊を揺らしている。昼の喧騒が嘘のように静まり返った学術院の通路を、ユリウスはゆっくりと歩いていた。
正門を抜け、自宅へ向かおうとした、そのとき――
「ユリウス様」
ふいに、低く抑えた声が呼び止めた。
魔灯の陰から現れたのは、ヴァルディエル家の使用人服に身を包んだ若い男だった。顔に見覚えはないが、背筋の伸びた立ち姿と、隙のない所作が目を引く。
「……どちら様ですか?」
ユリウスが警戒を含ませて問うと、男は即座に深く頭を下げた。
「申し遅れました。ヴァルディエル邸に仕える者でございます。実は――奥様、リオネラ様が、一昨夜より容体を崩されておりまして」
その名を聞いた瞬間、ユリウスの胸がはっきりと音を立てて脈打った。
「一昨夜……?」
「はい。昨日になって一度持ち直されたのですが、その後ふたたび悪化し、現在は医師が付ききりで処置に当たっております。決して軽い状態ではございません」
言葉は慎重に選ばれていたが、隠しきれない切迫感が滲んでいる。
「当主アリウス様より、ユリウス様を至急お迎えするよう、直接命を受けました」
一昨夜からの急変。
医師が常駐するほどの容体。
そして、父が自ら人を差し向ける理由。
胸の奥が、嫌な感覚で締めつけられる。
「……母は、意識は?」
「ございます。ただ――長くお話しできる状態ではない、と」
一刻を争う。
その言葉が、はっきりと脳裏に浮かぶ。
「……すぐ向かいます。ただ、ヴァレンティナ邸に一報を――」
言いかけたユリウスの言葉を、男は一瞬も遮らずに受け止めた。
「その点でしたら、ご安心ください」
そう言って、男は視線を横に送る。
魔灯の届かぬ暗がりから、もう一人、同じ使用人服の男が静かに姿を現した。
「彼を先行させ、ヴァレンティナ邸へ伝令に向かわせます。事の次第は、当方から責任をもってお伝えいたしますので……どうか、ユリウス様はお急ぎください」
一切の無駄がない段取り。
それは、焦りの中にあるユリウスの理性を、むしろ納得させるだけの説得力を備えていた。
「……分かりました。案内を」
「ありがとうございます。こちらに馬車をご用意しております」
男が示した先には、ヴァルディエル家の紋章を刻んだ馬車が停まっていた。
扉に描かれた銀色の双翼が、夜の灯に淡く浮かび上がっている。
――それでも、胸の奥に、わずかな違和感が残った。
だが今は、それを精査している余裕はない。
ユリウスは短く息を整え、馬車へと歩み寄った。
――それでも、何かが引っかかった。
声の抑揚。
視線の運び。
礼儀正しさが、どこか整いすぎている。
(……だが)
“母が体調を崩した”という事実が、思考の天秤を傾けた。
ユリウスは短く息を整え、馬車へと歩み寄る。
「案内をありがとう。急ぎましょう」
「かしこまりました」
扉が開かれ、ユリウスは車内に乗り込む。
馬車はすぐに動き出し、王都の石畳を静かに駆けていった。
やがて、王都の門が近づく。
門番が制止するが、ユリウスは身分証を掲げた。
「ヴァレンティナ家のユリウスだ。通してくれ」
その銀髪と瞳を見て、衛兵たちは即座に道を開く。
「お気をつけて!」
馬車は結界を抜け、王都の外へと滑り出た。
――その直後だった。
「……ユリウス様。首元に、埃のようなものが」
男が恭しく手を伸ばす。
反射的に身を任せた、その刹那。
指先が外套の襟元に触れた瞬間、空気がわずかに震えた。
「……っ」
雷鳴に似た、低く短い音。
だが衝撃は、首元ではなく、身体の内側に広がった。
視界が一瞬、白く染まる。
四肢から力が抜け、足裏の感覚が消えていく。
神経の伝達が、意図的に切り離されたような感触。
(……しまっ――)
思考が、途中で途切れた。
身体が崩れ落ちる、その直前。
男の腕が、静かにユリウスを支える。
そこに、もはや丁寧な使用人の顔はなかった。
それは、人体を傷つけるための術ではない。
神経と魔力の同期を一時的に遮断する――
ユリウス自身が理論として構築した、制御魔術の応用だった。
「おやすみなさいませ、先生」
その声を最後に、ユリウスの意識は、深い闇へと沈んでいった。
――その夜、風は静かに吹いていた。
◇ ◇ ◇
学術院の別棟。
リーネ=フロイラインは寮の私室で、淡い灯の下、報告書の整理をしていた。
転移実験の数値記録と術式構造図。そこへ、星環演算による誤差解析の補足を書き加えていく。
「……次の段階へ進める準備は、整っている」
ペンを置き、息を吐く。
ふと、窓の向こうへ視線を向けた。
夜空には薄く霞がかかり、月の光がどこか鈍い。
カーテンが、微かに揺れた。
「……?」
その瞬間、リーネの眉がわずかに寄る。
風の流れが、いつもと違う。
空間の奥に、かすかな“よどみ”が生じているような感覚。
彼女は窓際へ歩み寄った。
「……空間の、流れが」
その呟きは、誰にも届かない。
だがそれは、夜の帳に刻まれた、最初の異変だった。
ユリウスがいないことに、まだ誰も気づいていない。
静けさの底で、何かが、確かに崩れ始めていた。
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