窓際のさかな
asomichi
ケース1:すみれ 「傘をたたく雨の音(1)」
1
「道……こっちでいいのかな」
傘を叩く雨の音を聞きながら、すみれは名刺の略地図を確認した。携帯のナビアプリでは、確かに目的地に近づいているようだ。ひと一人がすれ違えるほどの細い路地。両側にそびえるブロック塀。すみれは小さくため息をついて、鉛色の空を見上げた。
「あー、不倫なんて二度と嫌」
それは三日前のことだった。四杯目のカクテルを飲みほし、すみれはカウンターに額をつけた。「もう、重たいのも、暗いのも、ぜんぶ嫌」
「またいい出会いがあるって」
店長がウイスキーのロックとチェイサーをそっと置いた。
「じゃあ、合いそうな人がいたら、ぜひ紹介してください。リクエストは、明るくて、軽くて、私が等身大でいられる人」
すみれはぶっきらぼうにグラスを掲げた。馬鹿なことを言ったもんだ。店長は、仲人なんてするわけない。面倒くさい客に「それは承知いたしかねます」なんて、慇懃無礼に返してくれれば、それで話は終わりだった。
しかし、店長は右斜め上を見つめたまま、黙り込んだ。おもむろに腕組みをし、すみれを見下ろしてきた。
「そうだな……ひとり、俺が紹介できるやつがいるんだけど、会ってみる?」
「……どんな人?」
「軽くて楽しいやつだよ。もちろん彼女はいないし」
「ほんとに」
「でもね、無料じゃ会えない」
ああー! そういうことか。
「ごめん、店長。そういうのはちょっと」
傷心とはいえ、ホストに手を出す気にはなれない。
店長は目を細めて、名刺をカウンターに滑らせた。
『アトリエ KUROSE』
「紹介したいのは俺の友達。そいつ、画家なんだ」
「画家」
分かったふりをして、作り笑いしてみた。ここ数年、美術館にも足を運ばないすみれの前で、画家という言葉は、ふわふわとカウンターを漂っていた。店長はカクテルを作りながら続けた。
「肖像画が得意で、一日のほとんどをアトリエで過ごしてる。依頼をたくさん抱えて、忙しいんだ」
「はあー、肖像……画家……」
すみれはいま一度、その「彼」を想像してみた……。やはりピントが合わない。画家を生業にしている人なんて、今まで会ったことがない。店長は前かがみになって、すみれに顔を近づけた。
「でもね……本当に会うのを勧めたくなる、すみれちゃんに合う、いい男なんだよ」
「……でも、忙しいんですよね」
「そうだね。あいつと会えるのは、肖像画を依頼する顧客と、俺くらいだよ」
「え……それって」
「そう。つまり、肖像画を注文すればいいんだよ。あいつがすみれちゃんの絵を描いている間、二人でゆっくり話ができるよ」
「そういうことですか」
合点がいったと同時に、想像して顔が熱くなった。肖像画を描いてもらうなんて、中学校の美術の時間に、同級生と向き合った以来だ。「なるほど。私がモデルになって、そこで『彼』とおしゃべりしたらいいよ、ってわけですね?」
「おしゃべりだけじゃなくてもいいけど」
チェイサーの水滴で、手が滑りそうになった。今の言い回し……あれは聞き返してはいけない。掘り下げれば……。レモン水を喉に送りながら、すみれはカウンターをにらみつけた。落ち着け、落ち着けわたし。
「……して……その、お値段は?」
「十万円」
喉元がぐぅっと音を立てた。うーん。出せなくないけど、肖像画って、それくらいが相場なの?
店長は腰に片手を添えて、不敵に言った。「料金は後払いでいいよ。一回目は無料だし。途中で嫌になっても完成前に断りの連絡を入れてくれたら、半額でいいよ」
「そうなんですか……」
「完成まで、期間はだいたい二カ月。会うのは週一、二くらいかな。その間、すみれちゃんはそいつのパトロンだ」
パトロン!
耳まで一気に熱くなった。絵を一枚注文するだけなのに、まるでその人を喰わせるみたいな言い方はちょっと……。でも……非日常感があって、面白そうだ。アトリエって、油絵だらけの雑多な場所だろうか。マンガだったら、髪がぼさぼさで、だらしない格好の男だけど、前髪を上げたらじつはイケメンだったとかよくあるけど……。
妄想しながらウイスキーを睨んでいたら、店長はいつの間にかカウンターから離れて、ワイングラスを拭き始めていた。もうこれ以上説明するつもりはないようだ。他のお客の対応で、こちらを見向きもしない。
カウンターに下がっている裸電球をすみれは見上げた。どれだけ想像してみても、画家の「彼」のはっきりした姿は浮かんでこなかった。腕時計の針がⅪを越え、あと五十分で終電が来る。酔いはだいぶ醒めてきていた。
「格安! 4泊5日、¥ 58,900~」
すみれは、バッグからはみ出している旅行パンフを見つめた。真っ青な空と、照り付ける太陽とヤシの木。月並みだが、失恋には傷心旅行だろうと、調べていたのだ。
……そうだよ。ちょっと長い沖縄旅行に行ったと思えば。
すみれは、残ったお酒を飲み干した。会計に立つと、店長がにこやかにカウンターから出てきた。
「さっきの話……注文するにはどうすればいいですか?」
店長が、片目を細めた。
「次、仕事の休みはいつ?」
「明後日ですね」
「じゃあ、明後日の午後三時。名刺の裏にある地図のところに行ってみて。友人には、俺から話付けとくから。せっかくだし、お気に入りの服を着てね」
店長ありがとう!
最寄り駅まで続く商店街を小走りで抜ける。スキップまでしたくなった。こんな感覚は久しぶりだった。だが……
──何言ってんの。違うでしょ。
ふくらはぎが急に重たくなった。パンプスのつま先から、細い影が伸びていた。点滅する商店街の灯を受けて、影はろうそくのように揺らめいている。
情けない……、店長に哀れまれてしまった。
元カレとよく来ていたあのバーに、別れてからも一人で通ってた私を、店長は不憫に思ったんだ。
「あーあ、迷惑かけちゃった」
首を回すと、夜空に煌々と満月が輝いていた。すみません。人というのは、迷惑をかける生き物なんです。
──まあ、でも、やっぱり、本音はちょっと嬉しいんです。なんでもいいから、未来に期待できるって、すごく久しぶりだから。
つま先がやっと地面からはがれた。すみれは駅に向かって駆けた。
そしていま、地図アプリを頼りに、名刺に書かれた住所を探しているわけだが、ここまできて気持ちが萎えそうになっている。
やっぱり、ちょっと胡散臭い話だったかな……。
しかし、モスグリーンの傘を見て、すみれは首を横に振った。今朝は、窓の外からさらさらと流れる音が聞こえていて、カーテンを開けたら細やかな雨が降っていた。梅雨入りには少し早い、穏やかな白い雨。お気に入りの傘を使うのに、絶好の機会になったのだ。そうだよ、勇気を出すんだ。このまま毎日滅入ってちゃだめだ。
新旧入り混じる住宅街の細い路地を、どんどん進む。
そして何度か角を曲がったとき、インパクトのある垣根が目に飛び込んできた。黒塗りの木板でできた、すみれほどの背丈の垣根だった。まるで訪れる人を威嚇しているみたいな漆黒の境界線。その向こうに、外壁が漆喰塗りで、オレンジの屋根でできた北欧風邸宅の一部が見えた。
地図に目を落とすと、ちょうど目的地と一致する。ここか……。
すみれは垣根に沿って歩いた。すると、同じ高さの門柱と門扉が現れた。門柱には石彫のプレートがついていて、漢字で「黒瀬」と彫られている。
「へえー、『黒瀬』さん家ちだから、『KUROSE』……なのかな」
すみれは背伸びをして、中を覗いてみた。黒い外観からは想像もできない庭が現れた。一面の芝生。選定されたコニファー。丈の低い何種類ものハーブ。門扉から玄関ドアまで石畳のアプローチがついている。霧雨に包まれて、庭全体がおぼろげに煙っている。
唾を飲み込み、すみれは思い切ってインターフォンを押した。心臓の音がうるさいくらい鳴っている。
「──はい。どちらさまですか」
間をおいて、男性の声が出た。この人が店長の友人だろうか。
「あ、あの、店長からお聞きしているかと思うのですが、わたくし……」
緊張して仕事口調になった。すると、柔らかい声が返ってきた。
「すみれさんですね。お待ちしていました。どうぞおはいりください」
「は、はい」
慌てて門扉を横に引く。足早にアプローチを進み、玄関のポーチで傘を畳もうとしたら、ドアが動いた。
「こんにちは」
彼を見て、すみれは傘を畳むのも忘れて固まった。
若い!
画家というから、それなりの年を想像していたら……三十路前の自分より断然若いじゃないか⁉ それに、すごくカッコいい!
クラシックな丸メガネが似合う! すごくきれいな顔立ち。背も高いし。ベージュのカッターシャツに、ロングカーディガン。黒のスキニーパンツから細い足首が見える。どんだけ足長いの。画家よりモデルと名乗った方が、ずっと説得力あるんですけど。
脳内レビューが止まらない。立ち尽くしたすみれに、彼が、にっこりと微笑んだ。少し眉を下げるようなその笑顔を見て、すみれは傘を両手で掴んだ。
──似てる……。
会わなくなった元カレの笑い顔が、脳裏に浮かんだ。
「雨、大変でしたでしょう」
「……いえ。小雨でしたし」
「どうぞ、お入り下さい」
彼はドアボーイのように扉を押さえて、すみれを玄関に通した。すみれはパンプスを脱ぎ、震える指でそれを揃える。
「こちらへ」
彼に促されて、廊下を進む。先に立つ彼の背中が、元カレ背中と重なる。なにこれ、なんでこんなに似てるの……。
「すみれさん?」
「え? な、なんですか」
突然、後ろを振り返られて、声がうわずってしまった。
「……いえ、なんでも」
彼は微苦笑して、また前に向き直った。耳が熱い。すみれは胸を小さく叩いた。フローリングに映るスリッパの影だけを見て、彼の後についていった。
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