桜舞春音

風の味

Prologue

 風鈴の音は、まだ聴こえているのだろうか。


 一級河川、矢田川があるこの東区の夏は、いつも風鈴に溢れていた。彼は若い頃から夏になる度この地を訪れる。彼の住む、同市内の南区から、電車を乗り継いで一時間半。彼はこの地に固執していた。還暦を目前にし、目も耳も少しずつ悪くなってきて、日に日に衰えを感じていく中、彼は晩年まで欠かさず見に来ることをすでに心決めていた。


 瀬戸線は、どの線とも交わることなく栄と瀬戸とを結ぶ私鉄路線だ。矢田駅で降りると、川はすぐそこにある。


 このあたりもかなり変わった。昔はアパートや大きな一軒家ばかりだったが、人が少なくなりとっくに廃れてしまった。この「公園」も、今となっては跡地に過ぎないのだ。


 彼は藪のようになった草々を杖で掻き分け、足を踏み入れる。じんわりと暑い。肩掛けのカバンに入れた保冷水がなければ死んでしまいそうだ。二一世紀も終わりがけ、日本の夏は四五度を超えるようになっていた。

 たしかあの日も、こんなふうに暑苦しい日だった。


 遊具の跡をくぐり抜け、坂を登ると開けた場所に出る。テニスコートやベンチはまだ形を保っていた。日本の建築も捨てたものではない。今となっては、後の祭りでしかないが。


 彼はベンチに腰掛け、カバンから手記を取り出してペンを走らせる。彼がこの公園と出会ったころには世間はもう電子化の波に飲まれきっていたが、紙にペンを沿わせていくのはとても好きだ。

 

 風が吹いた。後ろからぶわっと。


 振り返ると、「者」が居た。


「やぁ、久しぶり」

 彼はすこし掠れた声でそう言うのだ。

「お前は本当に変わらないな。俺はこんなおじいさんになってしまったのに」


 「者」は応答しない。だがそれは彼にしてみればこのうえない応答なのだ。二人の間に言葉の介在など必要ではない。


 「者」はたしかに若かった。背丈は彼と変わらず、一六五もあるだろうか、というくらいだが、身体が細い。まるで子どものようだったが、「者」の性別はよくわからなかった。

 アニメキャラのように綺麗なグラデーションをした白と青の髪を小綺麗にまとめ、顔には黒い面。動物の骨を加工して炭で着色したものだろう。昔から変わっていない。


「俺はもう、此処に来るのは最後かもわからない」


 彼は重い口調で呟いた。

 問い質すように、「者」が彼の目の前に移動する。悲しそうに見えた。


「おまえが知ってるかは知らないけど、外の世界は壊れてしまった。地震で港は崩壊し、夏の暑さで人は死に、若者が減ってどんどん俺達老いぼれが野垂れ死ぬ。平均寿命も短くなるいっぽうだ」


「それはもう凄惨な世界さ」


「俺もいつ死ぬかわからない」


 「者」が隣に腰掛ける。季節外れに、金木犀の匂いがした。


「だからこの際教えておくれ、おまえは何だ?」


 また強い風が吹く。


 「者」との出会いは五〇年前。この公園で、出会い仲良くなった。毎年のように訪れては、言葉も交わさないままに遊び、食らい、愛し合った。何も知らなかった一〇代の彼は、「者」とたくさんのことをした。たくさんのことを学んだ。だが、いつも同じ深緑の服を着て、面をつけて現れる無口な「者」の正体はわからなかった。厳密には、人間でないこと以外は。


「おれは、わからない」

 

 それは確実に、「者」の声であった。彼は聞き入るように身を乗り出す。


「だけどおれ、おまえのことはすき」


 「者」の声はひどかった。まるで壊れた機械から、それも戦時中のラヂオのような、高音と低音が入り混じり割れた音。たどたどしい日本語。


「だからしぬまえに、もう一度あれが食べたい」


 「者」はそれだけ言った。

 「彼」は、頷いて、公園をあとにした。


 しばらく経って、「彼」がそれを持って戻ると、「者」は手に石を持って立っていた。


 「彼」と「者」は、また食事をともにした。

 それから、幼い日のあの思い出をなぞるようにたくさんのことをして、日が暮れるまで共にいた。


「終わりか。ついに」

「おわらない」

「え?」

「おわらないまま、おわるから」


 日が沈む直前。赤と青が混じり合う直線の下で、二人は川を眺めていた。


 「者」が面を外す。

 「彼」が、にこりと微笑む。


 風鈴の音が止んだ。


 二人はそのまま永遠に、この川とこの木々に囲まれて遊び続けられることを願った。


 その日の晩。二人は、木々のなかにぽっかり穴が空いたように浮かぶ星空を見ながら寝ていた。

 「彼」が自分の異変を感じ取る。心拍がおかしい。不安定だ。目がとろんとして、焦点が合わない。だが不思議と怖くはなかった。死ぬんだな、と思った。「者」に申し訳ないとは思ったが、それなら火葬でもして自分の骨をまたあの面のように身に着けてくれたらとまで思った。


 「者」はきっと死なない。地球が滅んでも永遠に。「彼」と過ごした毎夏の思い出が永遠のものであるように。


 「彼」は目を閉じた。少しの間、「者」と過ごした五〇年を思い返す。

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