第22話 言の葉の届かぬ池で
声を奪われた僕たちは、ただ呆然と池のほとりに立ち尽くしていた。
言葉を交わすことができない。
それは想像以上に、不安で心細いことだった。
どうやって作戦を立てる?
どうやって危険を知らせる?
互いの考えていることが、全くわからない。
絆を試す、あまりにも意地の悪い試練だった。
最初に動き出したのは、暁人くんだった。
彼は僕たちに手招きをすると、池のほとりをゆっくりと歩き始めた。
何かを探しているようだった。
僕たちもそれに続く。
そして数分ほど歩いたところで、葦の茂みの影に隠されるようにして、一艘の古い木製の小舟が打ち捨てられているのを見つけた。
「……!」
海斗の顔がぱっと明るくなる。
これを使えば、池を渡ることができるかもしれない。
しかし問題は、山積みだった。
結衣がその小舟を注意深く観察し、すぐにいくつかの問題点を指さして僕たちに伝えた。
まず、小舟は大人一人が乗るのがやっとの大きさしかない。
僕たち三人が一度に乗ることは、不可能だ。
そして何よりも、肝心の舟を漕ぐためのオールがどこにも見当たらない。
どうするべきか。
三人が身振り手振りで、必死に議論を交わす。
海斗は自分が泳いで舟を引っ張っていくというようなジェスチャーをしたが、結衣と暁人くんがすぐにそれを首を振って制止した。
この嘆きが渦巻く池に、直接身を浸すことがどれほど危険か、わからないからだ。
議論が行き詰まりかけた、その時。
結衣が何かをひらめいたように、手を叩いた。
そして彼女は、対岸を指さした。
僕たちもその先を見る。
遠くてよくは見えないが、対岸の大きな木の幹に、何か太い綱のようなものが巻き付けられているのがぼんやりと見えた。
そして結衣は今度は、僕たちの足元を指さす。
そこにはその綱の片割れであろう、ロープの端が古びた杭に固く結びつけられていた。
そういうことか。
結衣は僕たちに、ジェスチャーで作戦を懸命に伝えた。
まず誰か一人がこの小舟に乗って、対岸に渡る。
そして残った者たちが、こちらの岸からロープを少しずつ送り出していく。
対岸に着いた者が今度はそのロープを引っ張って、次の者を呼び寄せる。
それを繰り返すしかない、と。
非常に時間も手間もかかる作戦。
でも、それ以外に方法はなさそうだった。
問題は、誰が最初に渡るか、だ。
海斗が力強く、自分の胸を叩いた。
そして背中に負ぶっている僕を、指さす。
彼が言いたいことはわかった。
意識のない僕を連れて危険な池を渡る役目は、自分が引き受ける、と。
結衣は一瞬心配そうな顔をしたが、すぐに覚悟を決めたように強く頷いた。
作戦は、決まった。
海斗は僕を背負ったまま、慎重に小舟へと乗り込んだ。
小さな舟がぎしりと、大きく揺れる。
結衣と暁人くんが両側から舟を支え、なんとか安定させた。
暁人くんが舟のへりをぐっと、岸から押し出す。
小舟は静かに、水面を滑り出した。
結衣が岸の杭に結ばれたロープを解き、それを少しずつ送り出していく。
舟はゆっくりと、しかし確実に池の中心へと進んでいった。
順調に見えた。
池のちょうど中ほどまでたどり着いた、その時だった。
静かだったはずの水面が、突然ごぼりごぼりと泡立ち始めた。
そしてその泡の中から、無数の黒い影のような手が、ぬうっと現れたのだ。
「……!」
岸で見ていた結衣と暁人くんの顔が青ざめる。
影の手は、この池に声を奪われた者たちの怨念の集合体だった。
それらはまるで舟にいる海斗と僕を、自分たちの世界へと引きずり込もうとするかのように、一斉に舟べりへと襲いかかってきた。
ガシッ、ガシッ!
何本もの影の手が舟のへりを掴み、激しく揺さぶり始める。
小舟は今にも転覆しそうなくらい、大きく傾いた。
海斗は僕を背負っているため両手がふさがっており、抵抗することができない。
彼は必死に体のバランスを取るが、影の手は次から次へと増えていく。
絶体絶命の、ピンチ。
その時、岸にいた暁人くんが素早く印を結んだ。
そして数枚の御札を、小舟に向かって投げ放つ。
御札は小舟の周りに吸い寄せられるように張り付くと、淡い青白い光を放ち、小さなドーム状の結界を形成した。
影の手が結界に触れると、じゅっと煙を上げて弾かれる。
しかし影の手の勢いは、止まらない。
結界のあちこちでバチバチと火花が散り、少しずつ光が弱まっていくのがわかった。
結界が破られるのも、時間の問題だろう。
一方、結衣も必死だった。
彼女は手にしたロープを巧みに操り、舟が傾きすぎないように、絶妙な力加減で引っ張ったり緩めたりを繰り返している。
彼女の正確無比なコントロールがなければ、舟はとっくの昔に転覆していただろう。
声が出せない。
言葉を交わせない。
でも、三人の心は一つだった。
海斗は舟の上で、必死にバランスを取り続ける。
暁人くんは結界を、維持し続ける。
結衣はロープを、操り続ける。
誰もが自分の役割を信じ、そして仲間を信じていた。
お互いの目を見る。
その瞳の奥に宿る光を読む。
次の動きを予測する。
それは言葉を超えた、魂のコミュニケーションだった。
長い長い格闘の末。
ついに小舟の先端が、対岸の砂浜に乗り上げた。
海斗が対岸に、たどり着いたのだ。
彼は舟から飛び降りると、僕を背負ったまま砂浜に倒れ込んだ。
「はあっ、はあっ……!」
彼の荒い呼吸だけが聞こえる。
岸の上の結衣と暁人くんも、その場にへたり込んでいた。
二人とも全力を出し切って、疲労困憊の様子だった。
しかし誰もが、安堵の表情を浮かべていた。
やったんだ、と。
だが。
その安堵を打ち砕くかのように。
海斗と結衣たちを繋いでいた、命綱であるはずのロープが、池の中から現れたひときわ巨大な影の手に、ぶちりと無残にも食いちぎられてしまった。
「……!」
三人の顔から血の気が引く。
ロープがなければ、もう池を行き来することはできない。
海斗と意識のない僕は、対岸に。
結衣と暁人くんは、元の岸に。
僕たちは完全に、分断されてしまったのだ。
そして、追い打ちをかけるように。
池の中心で静かに脈打っていた、あの真っ白な紙風船が、ドクンッ! とひときわ大きく脈打った。
そして僕の体から、何か大切なものがさらに強く吸い取られていくような感覚に襲われた。
分断されたこの状況で、どうやって僕を救うというのか。
新たな、そしてさらに深い絶望が、三人の前に立ちはだかっていた。
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