第13話 私のための試練
ラベンダーの香りがする古いお守りを手に、私たちは暁人くんの元へと戻った。彼は、私たちの差し出した『寄香』を静かに受け取ると、目を閉じて、その香りを確かめるように、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……間違いない。これが、祭りへの道を再び開くための鍵だ」
暁人くんはそう言うと、お守りをそっと私に返した。そして、彼の静かな瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
「桜井水希」
不意に名前を呼ばれて、私の心臓がどきりと跳ねる。
「お前の試練は、終わった」
「え……?」
私は、思わず間の抜けた声を出してしまった。私の、試練? 私はただ、結衣を助けようと……。
私の混乱を見透かしたように、暁人くんは淡々と続けた。
「お前の願いは、『誰かに気づいてもらえる特別な存在になりたい』という、漠然とした承認欲求だった。その代償として、お前は『悪意ある注目を浴びることへの恐怖』という呪いを受けた。お前は、人と関わることを恐れ、自分の殻に閉じこもることで、その呪いから逃げようとしていた」
彼の言葉は、私の心の奥底まで、すべて見通しているかのようだった。
「だが、お前は今日、自らの恐怖を乗り越えた。自分のためじゃない。友を救うという、ただ一つの目的のために、自ら矢面に立つことを選んだ。注目を浴びる恐怖よりも、大切なものを失う恐怖を選んだ。それこそが、理(ことわり)がお前に求めていた『成長』の証だ」
暁人くんは、次に結衣へと視線を移す。
「白石結衣。お前もだ。お前は、情報の洪水の中で、自らの思考を見失いかけていた。だが、桜井の声に導かれ、膨大なデータの中から、たった一つの、感情に結びついた記憶を拾い上げた。論理や知識ではなく、心を頼りに、答えにたどり着いた。それもまた、一つの試練の克服だ」
彼の言葉に、私と結衣は、ただ呆然と立ち尽くす。
試練は、いつの間にか始まっていて、そして、終わっていたのだ。大げさな儀式があったわけじゃない。ただ、私たちが、自分たちの弱さと向き合い、それを乗り越えようとした、その瞬間に。
「よく、やったな」
海斗が、私の頭を、ぽん、と軽く叩いた。その手つきは、少しだけぎこちなくて、でも、とても優しかった。結衣も、まだ少し青い顔をしていたけれど、私に向かって、はっきりと微笑んでくれた。
胸の奥が、熱くなる。
翌日、学校へ向かう足取りは、不思議と軽かった。
世界が昨日と変わったわけではない。教室に入れば、やっぱり、数人のクラスメイトが、こちらを見てひそひそと何かを話しているのが聞こえる。以前の私なら、それだけで胃が縮み上がり、一日中、針のむしろに座っているような気分になっただろう。
でも、今の私には、その声が、どこか遠くで鳴っている、意味のない雑音のようにしか聞こえなかった。
彼らが何を言おうと、関係ない。私には、私のことを信じてくれる、わかってくれる友達がいる。昨日、自分の力で、その繋がりを確かめることができた。その事実が、私の心の中に、静かで、でも揺るぎない自信の柱を立ててくれていた。
もう、私は、他人の視線に怯える、物語の脇役じゃない。
放課後、私たちは、いつもの神社の境内に集まっていた。次の満月は、一週間後。それまでに、私たちは、もう一度、幻灯祭へ行く。今度は、願いを取り消すために。
「なあ」
海斗が、夕焼けに染まる空を見上げながら、ぽつりと言った。
「俺、本当は、最強のエースになりたかったわけじゃないのかもしれない。ただ、みんなに頼られて、チームの役に立てる、そんな選手になりたかっただけなんだ。一人で勝つんじゃなくて、みんなで、勝ちたかったんだよな」
彼の言葉に、結衣も、静かに頷いた。
「私も、そう。この世のすべての答えが知りたい、なんて、馬鹿げた願いだったわ。私が本当に欲しかったのは、知識そのものじゃなくて、その知識を使って、誰かの悩みを解決したり、助けたりできる、そんな『知恵』だったんだと思う」
二人の言葉が、私の心に、すとんと落ちてきた。
そうだ。私も、同じだ。
私が願った「特別な存在」って、何だったんだろう。みんなからちやほやされて、人気者になること? そうじゃない。
「私は……」
私は、ゆっくりと、言葉を探した。
「私は、特別になんてならなくてよかったんだ。ただ、海斗と結衣の隣で、当たり前のように笑って、悩んで、時には喧嘩して……。そんな、ありのままの自分でいられる場所が、欲しかっただけなんだと思う。二人に、ちゃんと、ここにいていいんだよって、思ってもらいたかっただけなんだ」
初めて、自分の本当の願いを、言葉にできた。それは、祭りで願った、漠然としたちっぽけな願いとは全く違う、温かくて、確かな形を持っていた。
その時だった。
「……ちょっと、いいかな」
背後から、聞き覚えのある、意地の悪い声がした。振り返ると、クラスで私の悪い噂を流していた中心人物の女子生徒が、数人の仲間と一緒に立っていた。
「桜井さんさあ、最近、相田くんと白石さんに、なんか変なちょっかい出してない?」
彼女は、私を睨みつけながら言った。以前の私なら、心臓が凍りつき、視線を落として、黙り込むことしかできなかっただろう。
でも、私は、彼女の目を、まっすぐに見つめ返した。
何も言わない。言い返す必要なんて、ない。ただ、静かに、そこに立つ。
私のその態度が、意外だったのかもしれない。彼女は、一瞬、たじろいだように見えた。
その時、すっと、私の両隣に、海斗と結衣が並んで立った。二人も、何も言わない。ただ、私と同じように、静かな、でも強い意志を宿した瞳で、相手を見つめている。
三人の、言葉のない、完璧な連携。
それは、どんな反論よりも、雄弁だった。私たちは、揺るがない。お前たちの言葉では、もう、私たちを傷つけることはできない。
その無言の圧力に、彼女たちは、完全に気圧されたようだった。気まずそうに視線をそらすと、「……な、なによ、別に」とかなんとか言いながら、そそくさとその場を立ち去っていった。
嵐が、過ぎ去った。
私は、隣にいる二人の顔を見た。海斗も、結衣も、私を見て、優しく笑っていた。
ポケットの中の、ラベンダーの香りがするお守りを、ぎゅっと握りしめる。
ああ、そうか。
私が欲しかったのは、これだったんだ。
特別な誰かになることじゃない。物語の主役みたいに、キラキラしたスポットライトを浴びることでもない。
ただ、この二人と一緒に、同じ夕焼けを見て、同じ風を感じて、同じ未来に向かって、歩いていくこと。
それこそが、私の物語。私が、この手で掴み取った、かけがえのない、私の物語の始まり。
空っぽのスケッチブックに、ようやく、最初の色を乗せることができそうな、そんな気がした。
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