第5話 夜明けの少年
水上神社は、図書館から歩いてすぐの場所にあった。裏山へと続く、あの古びた神社だ。私たちは、何度も上り下りした苔むした石段を、今日ばかりは特別な緊張感を持って上っていった。
本殿の脇には、宮司一家が住むのであろう、立派な日本家屋が建っていた。私たちは、その玄関の前で立ち尽くす。呼び鈴を押す勇気が、誰にもなかった。
もし、彼が「暁の使い」じゃなかったら? ただの人違いだったら? 私たちの突拍子もない話を、信じてくれるだろうか。
不安が胸をよぎる。しかし、ここで引き返すわけにはいかなかった。
意を決して、私が呼び鈴に手を伸ばそうとした、その時だった。
「……何の用だ」
静かな声がして、家の引き戸がゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、紛れもない、白河暁人だった。学校の制服ではなく、祭りの時と同じ、白いシャツに黒いズボンという姿だ。彼の目は、私たちを冷ややかに見つめている。
「あ……あの、白河くん」
結衣が、かろうじて声を絞り出す。クラスメイトのはずなのに、まるで初対面のようにぎこちない。
「俺に、何か用か」
暁人の声には、あからさまな拒絶の色が滲んでいた。
「私たちは、あなたに会いに来たの」
私がまっすぐに彼の目を見て言うと、暁人はふいと視線をそらした。
「人違いだ。帰ってくれ」
彼はそう言って、戸を閉めようとする。
「待って!」
私は、思わず彼の腕を掴んでいた。触れた腕は、驚くほどに冷たかった。
「お願い、話を聞いて! 私たちは、幻灯祭に行ったの。そして、願い事をして……それで、大変なことになっちゃったんだ!」
私の必死の訴えに、暁人の動きがぴたりと止まった。彼はゆっくりとこちらを向き、私たちの顔を一人ずつ、値踏みするように見つめた。
「……だから言ったはずだ。後悔することになると」
彼の声は、やはり冷たい。でも、その奥に、ほんのわずかな同情のようなものが感じられた。
「わかってる! 私たちが馬鹿だったんだ! でも、このままじゃ……!」
海斗が叫ぶ。彼の声は、抑えようのない苛立ちと、助けを求める悲痛な響きを帯びていた。
暁人は、しばらく黙って私たちを見ていたが、やがて深いため息をついた。
「……入れ」
彼は小さくそう言うと、私たちを家の中へと招き入れた。
通されたのは、静かで、凛とした空気が漂う和室だった。床の間には掛け軸が飾られ、ほのかにお香の匂いがする。暁人は私たちの前に座ると、改めて口を開いた。
「幻灯祭は、ただの祭りじゃない。あれは、この世界と、もう一つの世界のバランスを保つための、一種の装置だ」
「装置……?」
「そう。人々の強い『願い』をエネルギーにして、世界の歪みを修正する。だが、エネルギーを奪われた人間側には、必ず反動が起きる。それが、君たちが『呪い』と呼んでいるものだ。願いが強ければ強いほど、代償も大きくなる」
彼の説明は、淡々としていた。まるで、教科書を読むかのように。
「俺の一族は、代々この神社の宮司として、幻灯祭の『案内人』を務めてきた。祭りが暴走しないように、そして、人間たちが深入りしすぎないように、監視するのが役目だ」
「じゃあ、あなたなら、この呪いを解く方法を知ってるのね!?」
結衣が、食い入るように尋ねる。暁人は、静かに首を横に振った。
「一度結ばれた『約束』を取り消すのは、容易なことじゃない。願いを取り消せば、君たちは祭りで得たもの……いや、祭りに関するすべての記憶を失うことになるだろう」
「記憶を……失う?」
「そうだ。幻灯祭のことも、俺のことも、そして、この夏、君たちが共に苦しみ、乗り越えようとしたこの時間さえも、すべてだ。君たちは、またあの『何もない夏休み』に戻るだけだ」
彼の言葉に、私たちは絶句した。すべてが元に戻る。それは、私たちが望んでいたことのはずだった。でも、記憶まで失ってしまうなんて。この苦しいけれど、三人で必死にもがいた時間まで、なかったことになってしまうなんて。
それは、あまりにも……寂しすぎる結末だった。
「そんな……」
「それが、祭りの理だ。受け入れるしかない」
暁人は、冷たく言い放った。彼の態度は、どこまでも突き放している。まるで、私たちのことなどどうでもいいとでも言うように。
どうして、そんなに冷たいの。私たちは、こんなに苦しんでいるのに。
悔しさと悲しさで、涙が滲んできた。その時、私はふと、彼の部屋の隅にあるスケッチブックが目に入った。私と同じ、マルマンの図案シリーズ。そこには、一枚の絵が描きかけのまま置かれていた。
それは、幻灯祭の絵だった。七色に光る綿あめ、宝石のような金魚、お面をつけた人々。そのどれもが、驚くほど繊細で、優しいタッチで描かれていた。まるで、その光景を心から愛しているかのように。
「……あなたも、本当は」
私は、思わず口を開いていた。
「本当は、この祭りが好きなんでしょう?」
私の言葉に、暁人の肩がびくりと震えた。彼は、驚いたように目を見開き、私を見つめている。
「あなたは、ただの案内人や監視役なんかじゃない。誰よりも、あの祭りを大切に思っている。だから、私たちみたいに、軽々しい気持ちで祭りを汚す人間が、許せないんじゃないの?」
私の指摘は、確信に変わっていた。彼の冷たい態度は、大切なものを守るための、不器用な鎧だったのだ。
暁人は、ぐっと唇を噛み締め、俯いてしまった。長い沈黙が、部屋を支配する。
やがて、彼は顔を上げ、絞り出すような声で言った。
「……方法が、ないわけじゃない」
「えっ?」
「記憶を失わずに、願いの呪いを解く方法が、一つだけある。だが、それはあまりにも危険で、過去に誰も成功した者はいない」
彼の瞳には、今までにない、真剣な光が宿っていた。
「君たちに、その覚悟があるか?」
それは、私たちへの問いかけだった。
危険な道を選ぶのか、それとも、すべてを忘れて安全な日常に戻るのか。
私は、隣にいる海斗と結衣の顔を見た。二人とも、真剣な顔で私を見つめ返してくる。その目には、同じ答えが浮かんでいた。
私たちは、もう逃げない。この夏から、自分たちの過ちから、そして、お互いの絆から。
「あるよ」
私は、力強く頷いた。
「私たちには、覚悟がある」
私の言葉に、暁人は初めて、ほんの少しだけ、微笑んだように見えた。それは、夜明けの空に差す、最初の光のような、儚くも美しい微笑みだった。
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