第46話 束の間の凱旋と新たな火種
「ジークフリート王子……!なぜあなたがこのような場所に……!」
私の驚愕の問いに、仮面をつけたガルニア帝国の第一皇子は、大げさに両手を広げてみせた。
「はっはっは!そんなに驚かないでくれたまえ、麗しのミカ殿。言っただろう?少し野暮用だと」
彼の態度はあまりにも飄々としていて、敵意があるのかないのか全く読めない。しかし、彼の隣国王子という身分を考えれば、偶然この船に乗り合わせたなどという偶然はあり得なかった。
「野暮用、ですか。この船はクラインハルト王国の外交使節船です。許可なく乗り込むことは、国際問題になりかねない重大な主権の侵害ですが、ご存じで?」
私は冷静さを取り戻し、筆頭監査官としての冷徹な口調で彼を牽制した。
「おっと、怖い怖い。そう睨まないでくれたまえ。もちろん、事を荒立てるつもりはない。私はただ、君に直接会って、話がしたかっただけなのだから」
「私に……ですか?」
「そうだ。君が先日、我が弟クラウスに与えた『助言』。そして私にくれた『贈り物』。そのおかげで、我が帝国は無駄な内紛を避けることができた。父帝も摂政となった俺の意見を尊重し、クラインハルト王国への侵攻計画は完全に白紙撤回された。まずはその礼を言わせてくれ」
彼はそう言うと、芝居がかった仕草で恭しく一礼した。
「……それは何よりです。両国の平和に繋がったのであれば、私の働きも無駄ではなかったということですわね」
「ああ、全くだ。君はもはや、クラインハルト王国だけの宝ではない。この大陸全体の平和の女神だ」
彼のあまりにも大げさな賞賛の言葉。その裏に何か別の意図が隠されているのは明らかだった。
隣に立つレオン様は、一言も発さずに、しかし全身から「俺のミカ嬢に気安く話しかけるな」という猛烈なオーラを放っている。その蒼い瞳は、ジークフリートの一挙手一投足を鋭く監視していた。
「それで、その平和の女神様に、本日はどのようなご用件でしょうか。まさか、お礼を言うためだけに、わざわざ危険を冒して密航なさったわけではありますまい?」
私の探るような問いに、ジークフリートは仮面の下で、にやりと笑った気がした。
「さすがは、噂に違わぬ切れ者だ。話が早くて助かる。……本題に入ろう。君が今、追っている『天秤の徒』、そしてその裏の顔である『オリオン商会』。彼らの件で、君に取引を持ちかけに来た」
その名を聞いた瞬間、私とレオン様の間に緊張が走った。
「……なぜ、あなたがその名を」
「甘く見ないでもらいたい。我がガルニア帝国の諜報網は、大陸一だと自負している。オリオン商会が、我が国の国内でも不穏な動きを見せていることは、とうの昔に掴んでいる。奴らは我が国の軍需産業にまで触手を伸ばし、一部の貴族を抱き込んで武器の横流しを行っているのだ。実に不愉快な連中だ」
ジークフリートは吐き捨てるように言った。その瞳には、自国の秩序を乱す者への明確な敵意が宿っている。
「そこで提案だ、ミカ殿。この件に関して、我が国と君の国は一時的に手を組まないか?」
「……手を組む、ですか?」
「ああ。敵の敵は味方、というだろう?オリオン商会は、我々両国にとって共通の敵だ。ならば、互いの情報を共有し、連携して奴らの息の根を止める。これほど合理的で、双方に利益のある取引はないと思うが、どうだろうか?」
それは、あまりにも魅力的で、そしてあまりにも危険な提案だった。
ガルニア帝国。つい先日まで、戦争の危機にあった仮想敵国。その国の、最も信用ならないはずの野心家の王子からの、共同戦線の申し出。
素直に信じるには、リスクが高すぎる。しかし、彼の持つ情報力は、私たちの計画を大きく前進させる可能性を秘めていた。
私が返答に迷っていると、それまで黙っていたレオン様が、低い声で口を開いた。
「……断る。我々だけで、十分に解決できる問題だ。貴殿の助けは不要」
その声は、ジークフリートに対する明確な拒絶と、私を独占したいという強い意志の表れだった。
「ほう。これは手厳しいな、騎士団長殿。君は、彼女の負担を少しでも軽くしたいとは思わないのか?」
ジークフリートは、レオン様を挑発するように言った。
「彼女はたった一人で、あまりにも多くのものを背負いすぎている。君が本当に彼女を想うのなら、余計なプライドは捨てるべきではないかな?」
「なっ……貴様に何が分かる!」
レオン様が激昂し、剣の柄に手をかける。一触即発の空気。
「おやめなさい、お二人とも!」
私は、二人の間に割って入るようにして叫んだ。
「ここは戦場ではありませんわ。冷静に、合理的に判断すべきです」
私は一度深呼吸をすると、ジークフリート王子に向き直った。
「王子のご提案、感謝いたします。そして、その有効性も理解できます。ですが、今の段階で即答はできません。これは私の一存で決められることではない。まずは我が国の皇帝陛下にご報告し、その判断を仰ぐ必要があります」
「……ふむ。まあ、そうだろうな。賢明な判断だ」
ジークフリートは意外にもあっさりと引き下がった。
「よかろう。ならば、これは我が国からの誠意の証として、受け取ってもらおう」
彼はそう言うと、懐から一つの小さな水晶を取り出した。
「これは、我が国が開発した最新式の長距離通信用の水晶だ。これを使えば、たとえ海の向こうからでも、クリアな音声で会話ができる。皇帝陛下と相談する際に、役に立つだろう」
「……よろしいのですか?このような貴重なものを」
「構わん。未来の同盟相手への、先行投資だ」
彼はそう言うと、仮面をくいっと持ち上げた。
「では、私はこれで失礼する。良い返事を期待しているぞ、ミカ殿。……ああ、そうだ。騎士団長殿」
ジークフリートは去り際に、レオン様に向かって挑戦的な笑みを浮かべた。
「あまり、彼女を困らせるものではないぞ。彼女のような美しい花は、もっと大きな庭で咲かせるべきだ。君のような小さな植木鉢の中では、窮屈だろうからな」
その痛烈な皮肉を残し、彼はまるで忍者のように音もなく甲板から姿を消した。おそらく、小型の船か何かを近くに待機させていたのだろう。
後に残されたのは、怒りで肩を震わせるレオン様と、頭の痛い問題を抱え込んでしまった私だった。
「……あの男……!次に会ったら斬り捨てる……!」
「まあまあ、レオン様、落ち着いてください」
私は彼の怒りをなだめながら、手の中の通信用水晶を見つめた。
ジークフリート王子。彼の真意はどこにあるのか。本当に、オリオン商会を潰したいだけなのか。あるいは、これを機にクラインハルト王国に、そして私自身に何らかの貸しを作ろうとしているのか。
(……どちらにせよ、彼がゲームのプレイヤーとして、新たに盤上に上がってきたことだけは間違いない)
事態はますます複雑になってきた。
クラインハルト王国、シレジア公国、そしてガルニア帝国。
そして、その三国全てに影を落とす巨大な闇組織『天秤の徒』。
私の『お片付け』は、もはや大陸全土を巻き込む壮大な国際プロジェクトへと発展しつつあった。
「……レオン様。急いで王都に戻りましょう。陛下にご報告しなければならないことが、山積みですわ」
私の言葉に、レオン様はまだ不満そうな顔をしながらも、こくりと頷いた。
その夜、私は早速ジークフリート王子からもらった通信用水晶を使い、王宮のアルベルト陛下と連絡を取った。
水晶の表面が淡く光り、陛下の凛々しい姿が立体的に浮かび上がる。
『ミカか!無事か!?』
開口一番、私の身を案じる彼の声。その声を聞くだけで、私の心は不思議と安らいだ。
私はシレジア公国での一件と、そしてジークフリート王子との突然の接触について、詳細に報告した。
全てを聞き終えた陛下は、しばらく腕を組んで黙考していた。
その金の瞳には、一国の王としての深い思慮の色が浮かんでいる。
『……面白い。実に面白い展開になってきたな』
やがて彼は、不敵な笑みを浮かべて言った。
『ジークフリートの提案、受けてやろうではないか。敵を欺くには、まず味方から。いや、時には敵と手を組むことも必要だ。彼の情報網は、我々にとって大きな武器になるだろう』
「よろしいのですか、陛下?彼を信用するのは危険です」
『ああ。だからこそ、君を全権大使として任命する、ミカ』
「……え?」
『君がガルニア帝国との交渉の、全ての責任者だ。君のその目で、彼の真意を見極め、我々にとって最も有利な形で彼を利用しろ。君ならできる』
その、あまりにも重い、しかし絶対的な信頼に満ちた言葉。
私はごくりと喉を鳴らした。
私の仕事の範囲は、またしても大きく広がってしまった。
『それとミカ』
陛下が、ふと真剣な声で言った。
『その通信水晶は、非常に便利だな。これがあれば、いつでも君の声が聞ける』
「は、はあ……」
『俺の執務室と、君の船室を常時接続しておくように手配させよう。何かあれば、いつでも私を頼れ。いいな?』
その言葉は、私を心配する優しさのようでいて、その実、私が遠くにいても常に自分の管理下に置いておきたいという、彼の強烈な独占欲の表れだった。
私の知らないところで、私のプライベートな通信回線が、皇帝陛下にハッキングされようとしている。
私の穏やかなスローライフは、一体どこへ。
私は二人の英雄からの、海を越えてまで届く重すぎる愛情に、嬉しい悲鳴を上げそうになるのを必死でこらえた。
船は王都へと進む。私の目の前には、さらに巨大で複雑に絡み合った問題が山積みになっていた。
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