第34話 退任願いと二人の衝撃

私が完全に体調を取り戻した、ある晴れた日の午後。

私は一つの決意を胸に、皇帝陛下の執務室の前に立っていた。


手には一枚の羊皮紙を握りしめている。

それは私が昨夜、一晩かけて書き上げた『筆頭監査官・退任願い』だった。


コンコン、と扉をノックする。

「入れ」

中から威厳のある声がした。


執務室に入ると、そこには皇帝アルベルト陛下と、そして報告に来ていたらしいレオン様の姿があった。二人が揃っているのは私にとって好都合だった。


「ミカか。体はもう良いのか」

陛下が優しい笑顔で私を迎える。


「はい、陛下。おかげさまで全快いたしました。本日はそのご報告と、そして……これを、お渡ししに参りました」


私は意を決して、持っていた羊皮紙を陛下に差し出した。


「……退任願い?」


羊皮紙の表題を読んだ陛下の顔から、すっと表情が消えた。

隣に立つレオン様も、信じられないという顔で私と羊皮紙を交互に見ている。執務室の穏やかだった空気が、一瞬で氷のように張り詰めた。


「どういうことだ、ミカ。説明しろ」

陛下の声は静かだった。しかし、その奥には嵐のような感情が渦巻いているのが分かった。


私は深呼吸を一つすると、準備してきた言葉を述べ始めた。

「陛下。この度のアッシュフォード家の一件をもちまして、この国の根幹を揺るがす大きな『淀み』は、ほぼ解消されたと考えます。私の筆頭監査官としての当初の任務は、完了いたしました」


「……だから、辞めると言うのか」


「はい。私は元々、田舎のしがない貴族の娘です。これ以上、分不相応な地位に留まるべきではありません。これからは一市民として静かに、陛下が作られる新しい国を、見守らせていただきたいと存じます」


そう。これが、私の出した結論だった。

私の本来の目的は、穏やかなスローライフ。これ以上、国の中枢に関わればまた新たな事件に巻き込まれるかもしれない。


何より、このままこの二人のそばにいれば、私の心臓がもたない。彼らのあまりにも大きすぎる愛情は、私には受け止めきれないのだ。この国のためにも、そして彼らのためにも、私が身を引くのが最善のはずだ。


私の言葉を聞き終えた陛下は、しばらく何も言わなかった。

ただ、その金の瞳でじっと私を見つめている。その沈黙が、恐ろしかった。


やがて彼は、ゆっくりと口を開いた。

その声は、絶対零度の氷のように冷たかった。


「……ふざけるな」


「え……」


「ふざけるなと言っているのだ、ミカ・アシュフィールド!」


ドン!と大きな音を立てて、陛下が執務机を拳で叩いた。

そのあまりの剣幕に、私の体はびくりと震えた。


「君は分かっていない! 何も分かっていない! 君が成し遂げたことの、本当の意味を!」


陛下は椅子から立ち上がると、私の目の前までやってきた。

その顔は怒りと、そして悲しみと絶望が入り混じったような、見たこともない表情をしていた。


「君は、ただ問題を解決しただけではない! この国に希望という光を灯したのだ! 君がいるからこそ、改革派の者たちは私を信じ、ついてきてくれる! 君がいるからこそ、民は未来を信じることができる! それなのに……! それを全て投げ出して、いなくなると言うのか!?」


その、魂からの叫び。

それは私が想像していた反応とは、全く違うものだった。

彼は私を、便利な道具として見ていたのではなかった。この国の未来に不可欠なパートナーとして、見てくれていたのだ。


「俺も同意見だ」


それまで黙っていたレオン様が、静かに、しかし力強く言った。

「ミカ嬢。君は自分の価値を、あまりにも低く見積もりすぎている。君は俺たち騎士団にとっても、ただの監査官ではない。君は俺たちの装備を最適化し、多くの命を救ってくれた。君は俺たちの女神なのだ。その女神が、いなくなってどうして士気が保てるというのだ」


彼の蒼い瞳もまた陛下と同じように、私を失うことへの深い恐れの色を宿していた。


二人の、あまりにも真剣な言葉。

そしてその瞳に宿る、私へのあまりにも強い想い。

私は、完全に打ちのめされてしまった。


私の浅はかな考え。スローライフなどという、個人的な願望。

それがこの二人を、そしてこの国をどれほど傷つけることになるのか、私は全く理解していなかったのだ。


「……君は私にとって、ただの筆頭監査官ではない」


陛下が、私の両肩を強く掴んだ。

「君は私の半身だ。君のいない国など、私には統治する価値がない」


その、ほとんど告白に近い言葉。


「俺にとってもそうだ」


レオン様が、私と陛下の間に割って入るように私の腕を掴んだ。

「君のいない王宮など、俺にとってはただの石の牢獄だ。俺は君を守るためにここにいる。君がいなくなるのなら、俺がここにいる意味もない」


皇帝と騎士団長。

二人の腕に左右から捕らえられ、私は身動きが取れなかった。

逃げ場はない。

彼らの熱い視線と想いが、私を完全に閉じ込めていた。


(ど、どうしてこうなった……!? 私は、ただ円満退職したかっただけなのに……!)


私のささやかなスローライフ計画は、この二人のあまりにも重すぎる愛情の前に、木っ端微塵に粉砕された。

退任願いの羊皮紙が、私の手から、はらりと床に落ちる。

それは、私の甘い考えの残骸のようだった。


私は、この二人の独占欲に満ちた英雄から、どうやって逃げ出せばいいのか。

いや、もう逃げ出すことなど許されないのかもしれない。


私の異世界での人生のプロジェクトは、どうやら仕様変更を余儀なくされたようだった。しかも、とんでもなく大規模な仕様変更を。

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