第26話 影の監査官と天秤の紋章
舞踏会の翌日、王都は昨夜の事件で持ちきりだった。偽の勅命を掲げたテロリスト集団と、それを鮮やかな手腕で論破した美少女、筆頭監査官ミカ・アシュフィールド。私の名前は、もはや知らない者がいないほど有名になっていた。
「うーん……有名になりすぎるのも考えものね」
私は少しだけうんざりしながら、今日の仕事場である王宮の地下牢へと向かっていた。もちろん、護衛のレオン様も一緒だ。私たちの目的は、捕らえられたヴァイスハイト家の残党のリーダー、その男の尋問だった。
地下牢は、ひんやりと湿った空気に満ちていた。男は鉄格子の向こうで、力なくうなだれている。昨夜の自信に満ちた姿は、見る影もない。
「……お前か。俺の全てを奪ったのは」
男は私の顔を見ると、怨嗟の声を上げた。
「奪ったのではありません。ただ、真実を明らかにしただけですわ」
私は冷静に言い返した。
「あなたも気づいているはずです。あなたこそが、誰かに騙され、利用されていたのだと」
私の言葉に男はぐっと唇を噛んだ。
「……そうだ。俺は信じていた。あの方の、言葉を……」
「あの方、とは?」
レオン様が鋭く問い詰める。
男はしばらくためらっていたが、やがて全てを諦めたように語り始めた。彼らに偽の勅命を渡し、決起を促したのは、常に黒いローブで顔を隠した謎の人物だったという。その人物は、自分こそがヴァイスハイト家に古くから仕える影の支援者だと名乗ったらしい。
そして、その人物は彼らにこう約束した。「決行の夜、王宮の内部から我らが呼応する。皇帝の首は、我らが取る」と。
「……内部からの呼応?」
私は眉をひそめた。つまり、この事件の黒幕は王宮の内部にいる、ということだ。
「その人物について何か分かることは?声や体格、あるいは使っていた魔法とか」
私が尋ねると、男は首を振った。
「声は魔法で変えられていた。姿も常にローブで隠されていた。ただ……」
男は何かを思い出すように、目を細める。
「一度だけ、その人物のローブの袖から、紋章のようなものが見えたことがある」
「紋章だと!?」
「ああ。それはフクロウではなかった。確か……天秤のような、デザインだったと思う」
天秤の紋章。
私はすぐさまスキルで貴族名鑑を検索した。しかし、該当する貴族は存在しない。既に断絶した家か、あるいは公式には登録されていない闇の組織か。
尋問を終え、私たちは重い足取りで地下牢を後にした。
「ミカ、どう思う」
「……分かりません。ただ、敵は私たちが思っている以上に根が深く、そして狡猾です」
私はもう一度、偽の勅命について思考を巡らせた。あの鑑定スキルを欺く特殊な魔法。そして、リーダーの男が証言した天秤の紋章。二つのバラバラな情報が、私の頭の中で一つの可能性へと結びついていく。
(待って。天秤……。天秤が象徴するものと言えば、公平、正義、そして……監査)
その瞬間、私の背筋をぞっとするような悪寒が走った。
私はレオン様をその場に残し、一人、王宮図書館の禁書庫へと駆け出した。
禁書庫の最も奥深く。そこには王家の負の歴史、公には決して語られることのない記録が封印されている。私は筆頭監査官の権限で、その封印を解いた。
そして、見つけ出した。一冊の、黒い革で装丁された古い記録簿を。その表紙には、金色の箔押しで一つの紋章が刻まれていた。それは、紛れもなく天秤の紋章だった。
記録簿のタイトルは――。
『王家直属・影の監査官 アッシュフォード家 年代記』
アッシュフォード。その名前に、私の心臓が大きく跳ねた。アシュフィールドではない。アッシュフォード。しかし、その響きはあまりにも似すぎていた。
私は震える手で、その記録簿を開いた。そこに書かれていたのは、衝撃の事実だった。
アッシュフォード家とは、代々王家の影の仕事を一手に引き受けてきた一族だったのだ。諜報、暗殺、そして王家自身の不正を裁く、『影の監査』。彼らは王家の光を守るため、最も深い闇に身を置いてきた。彼らの紋章が天秤なのも、そのためだった。
しかし五十年前、当時の当主があまりにも強大になりすぎた力を恐れた王によって、謀反の濡れ衣を着せられ追放された。歴史の表舞台から、完全にその存在を抹殺されたのだ。そしてその時、一族の一部は名前を変え、身分を隠し、田舎のしがない貴族として生き延びることを選んだ。
その名前こそが――アシュフィールド。
(……なんてこと)
私のルーツ。私の家系。それが、今回の全ての事件の黒幕かもしれない。
私はその場にへたり込みそうになるのを、必死でこらえた。頭がくらくらする。
(感傷に浸っている場合じゃない。事実を客観的に分析しろ。そして、陛下に報告するんだ。それが筆頭監査官としての、私の仕事だ)
私は自分を奮い立たせると、その黒い記録簿を固く胸に抱きしめ、皇帝陛下の執務室へと向かった。
報告を聞いたアルベルト陛下は、驚くほど冷静だった。彼は、私が自分の家系の問題を隠さずに話したことに、むしろ感心したように頷いた。
「……辛い事実を、よくぞ話してくれた、ミカ」
彼は私の前に歩み寄ると、私の震える手を両手で優しく包み込んだ。
「君のその誠実さこそが、私が君を信頼する最大の理由だ」
その温かい手に、私の張り詰めていた心の糸が少しだけ緩む。
「君の出自など関係ない。君はミカ・アシュフィールドだ。私の、唯一無二の筆頭監査官だ。……違うか?」
その力強い言葉に、私は涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。私自身も気づかないうちに、一筋の涙が流れていたらしい。
「……はい。陛下」
「ならば、顔を上げろ。我々の本当の敵が見えたのだ。これは後退ではない。前進だ」
陛下はそう言うと、私の頬をそっと指で拭った。
アッシュフォード家。彼らの目的は何か。王家への復讐か。それとも、かつての栄光を取り戻すことか。
私の異世界での最大にして最悪の『お片付け』は、どうやら私自身のルーツへと繋がっていた。
運命の皮肉を感じながらも、私の心は不思議と燃えていた。隣には、私を絶対的に信じてくれる皇帝がいる。そして、きっとすぐそばで、私を守ってくれる騎士がいる。
ならば、何も恐れることはない。私は顔を上げ、私に流れる影の監査官の血を、正面から受け止める覚悟を決めた。
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