第3話
夜の闇が、三人の間に横たわる沈黙を、底なしの深淵へと変えていく。
風が木々を揺らす音も、遠くで鳴く虫の声も、まるで分厚いガラスの向こう側で鳴っているかのようだ。
秋山颯真の世界から、音も、色も、あらゆる感覚が消え去っていた。
ただ、目の前に立つ二つの人影だけが、悪夢のように、ぞっとするほど鮮明だった。
痛みは遠のき、もはや感じることはできなかった。視界に映る世界は、彩度を失い、ただの無機質な塊と化している。
目の前の二つの人影も、人間としての意味を失っていた。意味を持たない石や木と同じ、ただの物体としか映らない。
彼らの言葉は、風の音と変わらぬ、無意味なノイズだった。
「……どうして、こうなった」
かろうじて絞り出した声は、まるで自分のものではないように響いた。それは問いかけの形をしていたが、答えを求める響きはどこにもない。
ただ、壊れたレコードが同じ溝をなぞるように、意味もなく唇からこぼれ落ちた、音の断片だった。
その言葉に、水無月莉奈の肩がびくりと跳ねた。堰を切ったように、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出す。
「ご、ごめん……颯真、ごめんなさいっ……!」
しゃくりあげながら、彼女は意味をなさない言葉を繰り返した。
「違うの、これは、その……私だって、悩んでたの、颯真には言えなかったけど……」
その涙も、狼狽も、今の颯真にはひどく白々しく、薄っぺらい。まるで演劇の、予定調和の演出のようにしか見えなかった。
かつて、その笑顔ひとつで世界が輝いて見えた少女。その涙を拭うためなら何でもできると信じていた少女。
その面影はどこにもなく、そこにいたのは、自己保身の言葉を必死で探す、醜い見知らぬ他人だけだった。
莉奈の隣で、椿木海斗は腕を組んだまま、冷然と颯真を見下ろしていた。その表情には、発覚したことへの焦りよりも、むしろ長年のコンプレックスを晴らしたかのような、歪んだ愉悦の色が濃く浮かんでいた。
「見ての通りだよ、秋山」
海斗は、颯真の名前を、まるで初めて呼ぶかのように他人行儀な響きで口にした。
「お前の完璧な計画性ってやつが、莉奈を息苦しくさせてたんだよ。人間らしい感情ってのを、お前は知らないんだ」
その言葉は、心臓に突き刺さった侮蔑の刃を、さらに奥へと押し込むようだった。
そうだ、俺は退屈なのだ。マニュアル通りの男なのだ。本物の遊びも知らない、ただ土いじりが好きな、つまらない男なのだ。
怒りも、悲しみも、嫉妬も、とうにその臨界点を超えていた。
感情の奔流は、ある臨界点を越え、すべてを吸い込むような静寂へと収束した。それは嵐の後の凪ではなく、内側からすべてが凍り付くような、死に近いしじまだった。
まるで猛吹雪の中、感覚が麻痺していく遭難者のように。
颯真は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼らに背を向けた。
「颯真!?」
莉奈の悲鳴のような声が聞こえた。だが、彼の足は止まらない。
彼は、先ほどまで三人の幸福の象徴だったキャンプサイトの中心へと、ロボットのような正確さで歩いていった。
そこに鎮座する、スノーピークのアメニティドーム。自分が何度も設営し、メンテナンスしてきた愛着のあるテントだ。
その前には、SOTOのレギュレーターストーブと、ユニフレームのクッカーセット。莉奈が好きだと言っていた、ペンドルトンのブランケットが、まだ温もりを残しているかのように椅子にかかっていた。
それらすべてが、今は見るもおぞましい汚物にしか見えなかった。
自分と、莉奈と、海斗の「思い出」という名のヘドロがべったりとこびりついている。ねっとりとした不快感が、幻のように肌にまとわりつく。
颯真は、その全てを無視した。
ただ、その脇に置いてあった、自分のバックパックだけを無言で掴んだ。
グレゴリーのバルトロ65。彼の身体の一部のように馴染んだ、唯一の相棒。中には、彼の個人的な装備と、生きるために必要な最低限の道具だけが入っている。
共有のテントも、食料も、思い出の全てを、彼はその場に遺棄した。
それは、過去の自分自身をこの汚された聖域に葬り去るための、静かな儀式だった。
一言も告げずに、彼はキャンプサイトを横切り、展望台から続く下りの道へと足を踏み入れた。
「待ってよ、颯真! 話を聞いて!」
莉奈が追いすがろうとする気配があった。
「よせよ、莉奈」
海斗の、全てを見下したような声がそれを制する。
「ああやって一人で拗ねてないと気が済まないんだよ、あいつは。どうせ明日になれば、また泣きついてくるさ。お前の『ごめんね』が聞きたくてな」
その言葉が、最後の引き金だった。
颯真の内で、何かが決定的に、音を立てて断ち切れた。それは、張り詰めた糸がちぎれるような、あるいは、内なる壁が崩れ落ちるような、乾いた音だった。
彼は振り返らなかった。
ただ、闇の中へと、一歩、また一歩と、歩みを進めていった。
* * *
計画性のない行動。
それは、秋山颯真という人間が存在意義を懸けて否定し、忌み嫌ってきたものだった。
事前のリサーチ、綿密なルート策定、装備のチェックリスト、エマージェンシープラン。あらゆる不確定要素を排除し、万全の準備で臨むことこそが、彼にとってのアウトドアであり、人生そのものだった。
だが今、彼はその対極にいた。
ヘッドランプの白い光が照らす、狭い円の中だけが彼の世界だった。どの道を通れば最も早く麓にたどり着けるか、そんな計画はもうない。
ただ、重力に従って、下へ、下へと、足を動かすだけだった。
木の根に足を取られ、ぬかるみに滑る。何度も転びそうになりながら、彼は機械のように歩き続けた。
風の音。枝の擦れる音。自分の荒い呼吸。
かつては彼を癒した自然のシンフォニーは、今や彼の神経を逆撫でする不協和音でしかない。それら全てが、彼の内なる混乱を増幅させるノイズと化した。
どれくらいの時間が経っただろうか。
永遠にも思える闇の彷徨の果てに、不意に視界が開け、彼はアスファルトの冷たい感触を踏みしめていた。舗装された林道だ。
そして、その先にかすかなオレンジ色の光が見えた。最寄りの駅の明かりだった。
駅は、予想通り無人だった。
時刻表を見ると、始発が動き出すのは午前5時過ぎ。まだ2時間以上ある。
彼は冷たく硬いプラスチックのベンチに、崩れるように身を沈めた。バックパックを降ろすと、ずしりとした重みが、彼がまだこの世界に繋ぎ止められている唯一の証のように感じられた。
空っぽの頭の中で、海斗の言葉が木霊する。
「――お前には、莉奈は退屈だったんだ」
「――お前の言うキャンプは、ただの土いじりだろう」
そうだ。俺の計画、俺の準備、すべては自己満足だったのかもしれない。
俺は、自然をコントロールしようとしていたのだ。リスクを管理し、快適さを確保し、予定調和の感動を用意する。
それは、不確定要素に満ちた人間関係においても同じだった。
莉奈が喜ぶだろう場所をリサーチし、彼女が好みそうな食事を用意し、完璧なデートプランを練り上げる。
そうして、彼女の心を俺の『計画』という名の枠に嵌めようとしていたのかもしれない。
だから彼女は、海斗が提供する「無計画」で「刺激的」な、予測不能な世界に惹かれたのだ。
俺の信じた「計画性」は、今や俺を苛むだけの拷問具でしかなかった。
全てが無意味だった。
全てが、茶番だった。
やがて、遠くからレールの軋む音が聞こえてきた。闇の向こうから、二つのヘッドライトが近づいてくる。
始発列車。
彼は亡霊のように立ち上がり、ホームの端に立った。
行き先表示板には、彼の知らない地名が並んでいた。どちらが上りで、どちらが下りか。そんなことはどうでもよかった。
彼は、ドアが開いた車両に、ただ吸い込まれるように乗り込んだ。東京から、あの場所から、最も遠ざかるであろう方向へ。
ガラガラの車内に、彼の居場所はなかった。
窓の外が、ゆっくりと白み始めていた。夜と朝の境界線が曖昧に溶け合い、風景が徐々にその輪郭を現し始める。
だが、颯真の目に映る世界は、相変わらず色褪せたモノクロームのままだった。
列車は、単調なリズムを刻みながら走り続ける。ガタン、ゴトン。その音が、空っぽの心を揺さぶる。
ぼんやりと窓の外を眺めていた彼の視界の隅に、何かが引っかかった。
窓ガラスに貼られた、一枚のステッカー。日に焼け、端が少しめくれた、古い観光ポスターのミニチュア版だった。
『心やすらぐ秘湯の郷 水上(みずかみ)温泉へ』
そこには、エメラルドグリーンに輝く渓谷と、古びた木造の旅館の写真が印刷されていた。美しい風景のはずなのに、彼の心には何の感情も呼び起こさなかった。
ただ、「みずかみ」という、水の「上」の町を意味するその響きだけが、乾ききった彼の意識の砂漠に、ぽつんと染みのように広がった。
ガタン、と一際大きな揺れと共に、車内のアナウンスが終着を告げた。
彼は、他の乗客が一人もいないことに、降りてから気づいた。ホームに降り立つ。ひんやりとした山の空気が、彼の頬を刺した。
駅名を示す看板は、錆びて文字がほとんど読めなくなっている。山々に囲まれた、小さな、本当に小さな無人駅だった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
誰かに連絡するためではない。それはただの習慣的な動作だった。
画面は真っ暗なまま、何も映さない。バッテリーが切れていた。
まるで、世界との最後の繋がりが、ぷつりと断ち切られたかのようだった。
財布の中身を確認する。数枚の千円札と、小銭。家に帰る交通費にも足りるかどうか。
いや、帰る家など、もはや彼には存在しないような気がした。
その時だった。
ぽつり、と彼の額に冷たい雫が落ちた。
見上げると、鉛色の空がどこまでも広がっている。雨だ。
雨粒は、瞬く間にその数を増やし、勢いを増していく。ザーッという音が、世界のあらゆる音をかき消していく。
バックパックからレインウェアを取り出す気力もなかった。ただ、トレッキングジャケットのフードを深く被り、彼は駅舎の軒下から一歩、踏み出した。
冷たい雨が、彼の身体を容赦なく打ちつける。
体温が、気力が、思考そのものが、雨水と共に流れ落ちていくようだった。
どこへ行くあてもない。
何をすべきかもわからない。
完全に一人。
完全に、壊れきった状態で。
計画性のない旅。
それは、俺が最も嫌うものだったはずだ。
そして今、俺の人生そのものとなっていた。
雨に霞む視線の先、古びたアーチ状のゲートが見えた。
錆びた鉄板に、かろうじて文字が読み取れる。
『ようこそ 水上町へ』
彼は、自分がどこにいるのかを、その時初めて知った。
しかし、その事実に何の感慨もなかった。ただ、壊れたブリキの人形のように、彼は一歩、また一歩とその死んだ町の中へと、吸い込まれるように歩を進めていくだけだった。
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