終章 アトリエ劇場

第一幕 描くもの

 重いアトリエの扉を押し開ける。

 ぎ、と軋む蝶番ちょうつがいの音が夜の廊下に響いた。

 ひやりとした空気と、鼻をつくテレピン油の匂いが私たちを迎える。


 室内は、闇に沈んでいた。

 ただ一点。部屋の中央だけが、天井からのスポットライトで、白く円形に照らし出されている。そこにあるのは、大きなビロードがかけられたイーゼル。光の筋の中を、埃が星屑のように静かに舞っている。


 そして、その光の輪のすぐ脇。

 画家の使う背の高いスツールに、園田繭が腰掛けていた。


 彼女は、ずっと前から私たちが来ることを知っていたかのように、ゆっくりと顔を上げる。その表情に、驚きや恐怖の色はない。ただ全てを見通していたかのような、穏やかな微笑みが浮かんでいるだけだった。


 芝居がかった悪趣味な舞台。

 彼女は、ここを自分の劇場だと思っているのだ。


「こんばんは、探偵さんたち。そろそろ来る頃かと思っていたわ」


 その声は、親しい友人を招き入れるかのように、どこまでも穏やかで温かい。


「主役が待っている舞台だ。遅刻はご法度だろ?」


 暦が、その芝居がかった「おもてなし」を、面白そうに口角を上げて受け入れる。

 そのやり取りに吐き気すら覚えながらも、私はつとめて冷静に彼女と対峙した。

 後ろの方で、扉が音を立てて閉まる。完全に外界から隔絶された。


「さて、園田君」


 先に口火を切ったのは、暦だった。彼女の声は平坦で、まるで出来の悪い論文を批評する教授のようだった。


「君の処女作『トロフィー事件』について、批評させてもらおうか。占いサイトを使った心理誘導だね。その発想は悪くない。だが、君の脚本は確実さに欠けると僕は思うよ。例えば『鍵のかかった音楽室とガラスケース』だ」


 暦は、見えない鍵束をくるくると指先で弄ぶかのように続ける。


「君は、美術部の活動を理由に職員室へ出入りし、田中先生の机から一瞬だけ鍵を借りて粘土で型を取り、合鍵を作った。そうして用意した合鍵と儀式用のラメを『偶然』と『神託』を装って旧図書館の棚に隠し、心の拠り所を求める小野寺さんを脚本通りに動かすことに成功した。……しかし、だ。これは彼女のような特殊な精神構造の持ち主にしか通用しない、あまりに不確実な筋書きだとは思わないか? 良い脚本とは言えないね」


「あら、手厳しいのね。あれは私にとって、習作のようなものなの。ちゃんと狙い通りの色が出るかどうか、見極めたかったのよ。結果として、小野寺さんは小野寺さんにしか出せない色を見せてくれたわ。あなたたちだって、楽しめたでしょう?」


 園田さんは、悪びれる様子は一切ない。むしろ自らの演出の効率性を誇るように、楽しげに反論する。


 暦は、そんな彼女の言葉を、軽く肩をすくめて受け流した。


「次の『朱筆の霊』は、少しは成長が見られたね。消えるインクは古典的だが、星野さんの劣等感を起爆剤とし、彼女の明確な敵をキャスティングしたのは的確だった。だが、これも詰めが甘い。君は、桐谷会長がただ泣き寝入りするとでも思ったのかい? 彼女のプライドの高さと、自己演出能力を完全に見誤っている。そのせいで、君の美しい脚本に『うそつき』なんて醜いアドリブが入る隙を与えてしまった」


 園田さんは相槌を打ちながら、楽しそうにその批評を聞いていた。自分の複雑な作品を理解してくれる批評家に、ようやく出会えたかのように。


 二人の会話には、罪悪感も、後悔も、被害者への配慮も、何一つなかった。人の心が、ただのプロットとして消費されていく。その事実に、私は耐えきれずに口を開いた。声が、わずかに震える。


「やめてください。これは、芸術の批評会なんかじゃない」


 彼女の目を、まっすぐに見据える。怒りまかせではダメだ。園田さんにも事情があったことを、私は知っている。


「あなたのしたことは、分かっています。……これは、あなたの親友のための、復讐なんですよね?」


 彼女に問いかける。彼女の、その歪んだ行いの根底にあるはずの人間的な動機に。


「でも、そのために他の誰かが傷つくのは、間違っています。あなたの復讐のために小野寺さんは罪の意識にさいなまれ、星野さんは心を操られ、井上さんは夢を壊された。……これは、あなたの親友が本当に望んだことなんですか?」


 魂からの問いかけ。

 園田さんは、今までの微笑みを消し、な顔をした。それも一瞬だけ。気付けば、憂いを帯びた表情に変わっている。


「……ええ。夏川さん。あなたには、分かるのね。私の、このどうしようもない気持ちが」


 涙ぐんでいるようだった。その瞳は悲しみで潤んでいるのに、涙は一粒もその頬を伝わない。それは、あまりにも儚く、あまりにも痛々しく、そして、あまりにも完璧な『悲劇のヒロイン』だった。


「でもね、もう後戻りはできないの」


 悲劇の主人公の顔から、何事も無かったかのように、すっと演出家の顔に戻る。

 背筋を氷柱で貫かれたかのような違和感。

 私は、何か見誤っているのではないか。この、園田繭を。


 彼女はスツールから優雅に立ち上がると、スポットライトの中央へと歩みを進めた。


「……さあ、見ていて。あなた達のおかげで、最高の舞台が整ったわ」


 その言葉と同時に、ぎ、と。

 背後でアトリエの扉が開く音がした。

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