第三話 諸刃の正義

 アトリエの喧騒を背に、私と暦は重い沈黙の中、寮へと続く道を歩いていた。

 頭の中では、何度もあの光景が再生されている。

 泣き崩れる井上さんを、抱きしめる園田さん。完璧な「聖女」を演じきった、彼女の声色。表情。立ち振る舞い。


「……許せません」


 気づけば、声が漏れていた。


「私が証明します。あの人が井上さんを操り、この悲劇を描いた本当の犯人だということを」


 私の決意表明に、隣を歩く暦は、ふぁ〜、と大きなあくびを一つしただけだった。


「ふぅん。……まあ、君がそう言うなら止めはしないけどね。ただ、今回は僕の専門外だ。犯人は井上で、そそのかしたのは園田という事実は覆らないだろうし。これ以上の糾問には興味は湧かないよ」


 彼女は気怠げな視線を私に向けると、まるで今日の天気でも話すかのように空を見上げて、こう続けた。


「正義っていうのはさ。ふわふわと浮ついていて、実体がなくて面白くない。空に浮かぶ雲みたいなもんだよ、葵。それ自体に善悪はない。だけど、集まって厚くなれば、太陽を隠し、冷たい雨を降らせ、時には雷を落とす。君の振りかざす正義が、嵐を呼ばないとも限らないんだよ」


 暦の言わんとしていることはよく分かっているつもりだ。それでも、私は園田を放っておくわけにはいかなかった。


 翌日の放課後、私は保健室のベッドで休んでいる井上さんを訪ねた。

 カーテンを開ける。井上さんは青白い顔をして、虚ろな目を天井に向けていた。私の姿を認めると、彼女の肩がびくりと小さく跳ねる。


「……井上さん。お加減は、いかがですか」


 できるだけ優しく、穏やかな声で話しかけた。


「単刀直入に聞きます。あなたは、園田さんに何かを言われたのではありませんか? 私は、あなたの力になりたいんです」


 彼女は激しく首を横に振り、取り乱す。


「ち、違う……! 違うの……!」


 その瞳は黒々としていて、私というよりは、何か別のところを見ているようだった。あるいは、何も見えていないかのよう。


「園田先輩は優しい人よ! 私が……私が弱かったから……先輩は、悪くないの……! お願いだから、もう、そっとしておいて……!」


 あまりにも必死な、拒絶の言葉。

 私は悟った。彼女はもはや、園田繭という脚本家が用意した『救済される罪人』という役を、心から演じきっているのだと。

 その完璧な舞台に、私という役者は不要だと言っている。

 これ以上の対話は、不可能だった。


 ──本人が認めている以上、他にどんな捜査ができるのだろうか。


 私は、途方もない迷宮に足を踏み入れてしまったのかもしれない。


 とりあえず作戦を変更し、他の美術部員たちに、それとなく話を聞いて回る。


「──え……? 今さら? もう終わった話じゃないの?」

「──もう掘り返してあげるのはやめてあげよう? 井上さんにも園田さんにも悪いよ」


 ただひたすらに動く。けれど、掴めるものは何もない。焦り、空回りし、私の足音だけが夕暮れの廊下に虚しく響く。見えない壁に囲まれた迷路を、たった一人で彷徨っているようだった


 ──やがて、学園の噂という見えないネットワークによって、私の活動は歪んだ形で伝わってしまっていた。


「葵先輩が、また井上のこと問い詰めてたらしいよ」

「ひどい。あの子、ショックで寝込んでるのに」

「園田先輩、すごく心配してた……」


 どこへ行っても向けられるのは、非難の色を帯びた冷たい視線ばかり。誰もが私を「厄介者」として扱い、足早に去っていく。

 私の振りかざした正義は、どこにも届かない。

 それどころか、私自身をじわじわと孤立させていくだけだった。


 その日の夕暮れ。

 調査に行き詰まり、苛立ちを募らせていた私の前に一人の生徒が立ちはだかった。

 園田を聖女のように信奉しているうちの一人。美術部の生徒だった。


「あなた、一体何がしたいんですか!」


 彼女は怒りを露わに、私を詰問する。


「井上さんにあんなことをしておいて、まだ嗅ぎまわるんですか! あなたのせいで、部がどれだけ迷惑しているか、分からないんですか!」

「違う、私は真実を……」

「真実ですって? 真実は! 園田先輩が! 傷ついた井上さんを! 優しく守ってあげている、ということだけよ! 私たちは知ってるんです。あなたがいつも一人で本ばかり読んで、誰とも仲良くしようとしない、冷たい人だってこと。そんなあなたに、人の為に涙まで流す園田先輩の優しさの、何が分かるんですか!」


 一方的にそうまくし立てると、彼女は軽蔑しきった目で私を睨みつけ、去っていった。

 私は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


 孤立無援。懐かしい、嫌な感じがした。

 あの時は暦が守ってくれたんだっけ。


 誰にも理解されず、ひとり重い足取りで寮へ戻る。

 人気ひとけの少ない渡り廊下の角を曲がった、そこに──。


 目の前の、白かったはずの壁。

 息が、止まった。背筋が凍る。足が床に縫い付けられる。


 私の目に飛び込んできたのは、おびただしい数の、憎悪に満ちた赤いスプレーの落書き。


 『夏川葵は、うそつきだ』


 壁一面に踊る、醜悪な、真っ赤な文字。

 もはや私が「探偵」ではなく、この悲劇の新たな「ターゲット」にされてしまったことを、何よりも雄弁に物語っていた。

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