第十話 完璧な善意

 星野さんの嗚咽が、図書室の静寂に吸い込まれていく。

 彼女の告白は終わった。

 私は、抜け殻のようになった彼女の隣にただ静かに座っていた。

 かけるべき言葉は簡単には見つからない。けれど、このままにはしておけない。


「──星野さん」


 意を決して、彼女に語りかける。


「明日、先生のところへ行きましょう。私も一緒です。あなたが一人で全てを背負う必要はありません。だから、まずは全てを正直に話しましょう」


 彼女は、こくりと小さく頷いた。その瞳にはまだ恐怖の色が浮かんでいる。けれど、少しだけ安堵のような光が宿っていた。

 トロフィー事件の時の、小野寺さんを思い出す。彼女もまた罪の意識に苛まれていた。


 二人とも、本来なら罪を犯すような人間ではなかった。何者かにより、罪を犯さざるを得ない状況を作り上げられて、その背中を強く押されたのだ。


 一方、暦は少し離れた席で、既にこの場の人間たちへの一切の興味を失っているようだった。

 彼女は自分の手帳を開き、何か数式のような……あるいは、チェスの棋譜のようなものを夢中で書き込んでいる。


「……なるほど。この盤面で、あの駒を、あえてそこに配置したのか。……ふふ、面白い。実に美しい脚本だ」


 その口元に浮かぶのは、純粋な知的好奇心に満ちた笑み。

 私には、彼女がもう星野あかりという一人の生徒を見ているのではない、と分かった。

 その背後で全ての糸を引いていた、見えざる「脚本家」の、その手腕に感嘆しているようだった。


 ***


 昼休み。カフェテリアはいつものように、生徒たちの賑やかな声に満ちていた。

 喧騒の中で「朱筆の霊」と「生徒会長の不調」といったキーワードが、断片的に耳に入ってくる。日々情報が更新される彼女たちのネットワークに、今のところは星野さんの影は落ちてきていない。


「……いた」


 暦はプリンをつつきながら、顎でカフェテリアの隅のテーブルを示した。


 生徒会長の桐谷澪さんがいた。

 数人の友人たちに囲まれてはいるが、その表情はどこか憂いを帯び、憔悴しているように見える。

 彼女が今回の被害者の一人であることは疑いようもない。ただ、わざとらしく公表してみせた「うそつき」の悪戯書きだけが私の中に引っかかっていた。


 ふらり、と。

 会長のテーブルに一人の生徒が近づく。

 美術部の園田繭さんだった。


 彼女はただ静かに、落ち込んでいる桐谷会長の隣へ移動する。すっと膝を折り、心の底から心配しているような、慈愛に満ちた表情で彼女の瞳を覗き込む。

 そして、真っ白な美しい刺繍の入ったハンカチを、そっと差し出した。


 何か優しい言葉をかけているようだった。桐谷さんは少しだけ驚いたように顔を上げ、一筋の涙を流す。それから、ハンカチを受け取った。

 園田さんは小さく微笑みを浮かべると、静かにその場を立ち去っていった。


 私はその光景を呆然と見つめていた。

 その場面は、まるで一枚の宗教画のようだった。

 傷ついた女王と、それを慰める心優しき聖女。

 きっと、この場にいる誰もがその光景の美しさに心を打たれたはずだ。


 なのに、どうしてだろう。

 私の頭の中では、警鐘が鳴り響いている。

 おかしい。

 何かが、おかしい。

 なぜこんなにも、心がざわつくのだろう。

 おかしなところは、無いはずなのに。


 逆に──完璧すぎるから?


 タイミングも、表情も、差し出すハンカチの、非の打ち所のない美しさも。全てが計算され尽くした舞台の一場面のように、美しすぎた。


 現実の人間が浮かべる表情にあるはずの、ほんの僅かな感情の揺らぎや、ためらいや、不器用さ。一連のやり取りには、それが無かった。一切の「ノイズ」が排除された世界。


「……ふぅん。絵になるねぇ」


 隣で、暦が呟いた。

 プリンの最後の一口を、口に運びながら。

 皆が感嘆している中、彼女はその場面を「構図の良い絵画」程度の認識しかしていないようだった。

 そうか。これか。

 この違和感の正体は。

「絵になる」か。

 見えない「脚本家」が描いた、完璧な「物語」の一場面。

 私の頭の中で、バラバラだったピースが音を立てて繋がっていく。


 星野さんの、哀しいほどの「思い込み」

 図書室で見つかった、あまりにも都合の良い「偶然」

 そして、いま目の前にあるこの完璧すぎる「善意」が――。

 全てが、繋がっている。

 全てが、一人の人間の、歪んだ美学によって描かれている。


 初めて明確な「疑い」の色を帯びた私の視線。それは、カフェテリアの出口へと消えていく園田繭の後ろ姿に、縫い付けられていた。

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