第八話 共感の探偵
「行くったって、どこへさ? この事件はまだ情報が足りなくて、解きようがないじゃないか。今の僕たちにできることは何もないよ」
「いいえ、あります」
私は、きっぱりと告げた。
「情報を集めに行きます。星野あかりさんのところへ」
「……だから、それが無駄だって言ってるんだよ」
暦は、心底理解できないという顔で、首を振る。
「彼女は恐怖で心を閉ざしている。何度も試したじゃないか。もっと論理的な物証なりを集めないと、彼女、どんどん意固地になるよ。いまは何を言っても届きはしないさ」
「だから、です」
暦のヘーゼルブラウンの瞳を、まっすぐに見つめ返した。
「彼女は、あなたが解くべきパズルじゃない。恐怖で助けを求めている、一人の人間です。
暦の瞳をじっと見つめる。
私の揺るぎない決意を感じ取ったのだろう。彼女は少しだけ不満そうに唇を尖らせながらも、やがて、ふうと大きなため息をついた。
「……分かったよ。好きにしたまえ。ただし、時間をかけすぎるのは無しだ。強く問い詰めると不正確な情報を引き出したり、嘘を考える猶予を与えることになるからね。タイムリミットは、10分だ。……たったの10分で、彼女からすべて引き出せそうかい?」
「ええ。それで構いません」
***
放課後の図書室は、静寂に満ちている。
一番奥にある、閑散とした閲覧席。
星野あかりさんは、一人でいた。
高い窓から差し込む夕日が、彼女の周りだけ時が止まっているかのように降り注いでいる。彼女は机の上に広げた本に目を落としているが、ページを送る様子はまるで無かった。
私たちが近づくと、彼女の肩がびくりと震えた。
顔を上げて私たちを認めると、怯えた小動物のように椅子から腰を浮かせ逃げ出そうとする。
私は近づく足を止めた。
少し離れたところから、静かにはっきりと声をかける。
「星野さん。少しだけ、時間をいただけませんか」
彼女の瞳が警戒の色に染まる。
言葉を続ける。
「今日は、私の話をしようと思っています」
一呼吸おいて、目の前で怯えている彼女に、自分の記憶を重ねるように静かに言葉を紡ぐ。
「いわれのない疑いをかけられて、誰にも信じてもらえず、たった一人で教室の隅に追い詰められた経験が、私にもあります」
私の予想外の言葉に。
星野さんの瞳が、大きく見開かれた。
「あの時、世界中の全てが敵に見えました。誰も私の声を聞いてくれない。私の存在そのものが、間違いだと言われているような気がして……。本当に、苦しかった」
あの頃の私だったら、絶対に誰にも言わなかった告白。自分の本心をさらけ出すこと。
今も抵抗はあるけど、星野さんの抱えているであろう苦しみを考えたら、自然に出てきた言葉だ。
尋問ではない。誘導でもない。
誠実な「共感」の言葉。
「どう、して……」
ゆっくりと、彼女の心の周りに張り巡らされた、固い氷の壁が溶けていくのがわかった。
「夏川さんが……そんな、ことを……」
彼女の瞳から、ずっと堪えていたであろう涙が堰を切ったように、ぼろぼろと、溢れ出した。
嗚咽に詰まりながら、彼女は自分のカバンの中から、くしゃくしゃに丸められた一枚の答案用紙を取り出す。
「夏川さん。違うんです……っ! 私、が……私が、やったんです……っ!」
彼女は叫ぶように告白した。
「会長の答案を、白紙にしたのは……私なんです……! でも……っ! でも、先に、ひどいことをしたのは、会長の方なんです!」
星野さんは震える手で、その答案用紙を私の前に広げてみせた。
過去、彼女が赤点を取った数学の小テストの答案だった。
しかしそこに書き込まれていたのは、オカルト研究会の中村さんが興奮気味に語っていた「完璧な解答」などではなかった。
答案の、余白という余白。
その全てに。
どこまでも優雅な筆跡を、ピーコックブルーのインクで。
びっしりと。
彼女が間違えた全ての設問に対する、一分の隙もない完璧で冷徹な『模範解答』が、書き連ねられていた。
それは、善意の添削などではない。
声なき声で、相手の劣等感を的確に、そして残酷に抉り出す、静かなる嘲笑。
言葉の暴力よりも、ずっと深く心を殺すための洗練された刃だった。
「これを見て、私は……!」
星野さんの悲痛な叫びが、夕暮れの図書室に、静かに響き渡った。
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