第一章 消えた栄光
第一話 金のトロフィー
「トロフィーが……! 去年の
資料室の静寂は、オカルト研究会・中村さんの悲鳴によって、鋭く引き裂かれた。
「面白いじゃないか。行こう、葵」
私が思考を巡らせるより早く、それまで机に突っ伏していた暦が、すっと身を起こした。さっきまでの眠たげな光はどこへやら。ヘーゼルブラウンの瞳が、獲物を見つけた猫のように、爛々と輝いている。
「え、ちょっと、暦!?」
「葵先輩、こっちです!」
暦は私の腕を掴み、中村さんは半泣きで先導する。私は、二人の勢いに引きずられるようにして、問題の第一音楽室へと向かうしかなかった。
どうして、こうなるのだろう。私はただ、静かな放課後を過ごしたかっただけなのに。
第一音楽室の重厚な扉の前には、既に数人の生徒と、憔悴しきった様子の男性教師が集まっていた。吹奏楽部の顧問、田中先生だ。
「ああ、夏川君……君も来たのか。念のため、あちこち触れないでくれよ」
「先生、一体何が……?」
「見ての通りだ……! 綾花祭を前に、こんな事が起きてしまうなんて!」
先生の言葉に促され、私たちは息をのんで室内を見渡した。
放課後の西日が差し込む音楽室は、奇妙なほど静まり返っていた。磨き上げたばかりの楽器が放つ金属の冷たい匂いと、床のワックスの匂いが混じり合う空気の中、それらはそれぞれのスタンドに置かれ、譜面台も綺麗に並んでいる。荒らされた形跡は、どこにもない。
ただ一点を除いて。
部屋の最も神聖な場所――壁際に設えられた、栄誉を称えるための陳列棚。その中央に置かれたガラスケースの扉だけが、ぽっかりと口を開けていた。
そして、その中にあるはずの、霞月学園の誇り。全国大会優勝の証である黄金のトロフィーが、影も形もなくなっていた。
「昨日の最終下校時刻までは、確かにここに……」
「誰かが忍び込んだっていうんですか? でも、鍵は」
「鍵は、私と学園長しか持っていないはずなんだ!」
田中先生が頭を抱えてうろたえる横で、吹奏楽部員たちは「やっぱり、あのピアノの怪異のせいよ……」「呪われてるんだわ……」と、ひそひそと囁き合っていた。
中村さんたちオカルト研究会の面々は、自分たちのイタズラがとんでもない事態を引き起こしたとでも思っているのか、顔面蒼白で震えている。
馬鹿馬鹿しい。怪異だの呪いだの。
これは、誰かが起こした、明確な悪意による「事件」だ。
私は冷静になろうと努めながら、状況を整理する。鍵を持っているのは、先生と学園長だけ。しかし、二人が盗むとは考えにくい。損にしかならないはずだ。
となると、合鍵か、あるいはピッキングか……。
「葵」
不意に、暦が私の袖を引いた。
彼女は、いつの間にかガラスケースの前に立っていた。私はてっきり、彼女も他の生徒たちと同じように、ただ呆然と眺めているだけだと思っていた。
「怪異の仕業だそうですが」
「あはは! でもね、とても奇妙な事件だと思うよ」
「奇妙、ですか?」
私が聞き返すと、暦はガラスケースの鍵穴のあたりを、ぎりぎり触れない程度に指さした。
「この鍵穴を見てくれよ。ピッキングでこじ開けたような傷が、一つもないんだ。扉の縁にも、バールか何かで無理やり開けたような痕跡もない」
「……それは、犯人が鍵を持っていたっていうことじゃ」
「かもしれないねぇ」
暦はそう言うと、今度はケースの中に視線を移す。そこには、台座を固定していた金具が数本残っているだけだ。
「それに、ここも変じゃないか」
「何がです?」
「犯人は、ケースに固定している金具を、わざわざドライバーか何かで、一つ一つ丁寧に外して、台座ごと盗んでいるんだ。ゆっくりと、時間をかけてね」
私は、彼女の言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
嫉妬による、衝動的な犯行。あるいは金目当ての窃盗。私はそう考えていた。
けれど、暦の言う通りなら、犯人の行動はあまりに冷静で、丁寧すぎる。
「一体、どういうことですか……」
「さてねぇ」
暦は、検分は済んだとでも言わんばかりにガラスケースから離れると、再び私の袖を掴んで体重を預けてきた。いつもの「省エネモード」に戻ってしまったらしい。
だが、その時だった。彼女が、ぽつりと独り言のように呟いた。
「しかしこれじゃあ、まるで……」
その言葉に、私は思わず彼女の顔を覗き込む。
暦は、私と目を合わせることなく、ただ空っぽのガラスケースを見つめていた。ヘーゼルブラウンの瞳が、先ほどまでの比ではない、鋭い探求の色に染まっている。
「まるで、犯人は、このトロフィーを盗みたかったんじゃなくて……」
その言葉の続きを、彼女は言わなかった。
しかし、その一言は、私の脳裏で何度も反響した。
盗むのが目的じゃないとしたら、一体、何のために?
黄金のトロフィーは、どこへ消えた?
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