第7話 リハーサルと葛藤

 文化祭まで、残り一週間。


 校舎のあちこちからは、バンドの音や演劇部の台詞が漏れ聞こえ、いつもの学校とはどこか違う、浮き立った熱気が満ちていた。


 体育館のステージでも、準備が進んでいた。

 メイン照明の調整、音響テスト、ステージ装飾。出演者のリハーサルは順次行われ、放課後の体育館はほぼ毎日使用されている。


「――次、姫川さんお願いします」


 その呼びかけに、美歌は小さく息をのんだ。

 手にはワイヤレスマイク、足はステージ袖のラインを越えようとしている。


(練習はしてきた。大丈夫。声は、出る――)


 それでも、足がすくむ。ステージに足を踏み出すその瞬間が、どうしようもなく怖かった。


「美歌、行っておいで」

 結衣が背中をそっと押してくれる。


 体育館の中央に設置された観客席はまだ空席のままだが、それでもステージ上からの眺めは異様に広く感じられた。


 美歌はマイクを構え、音響スタッフの合図を待つ。


「じゃあ、リハーサル入りまーす! BGM“Dear Voice”流します!」


 イントロが流れる。

 やわらかく、やや切なげなピアノの旋律。

 それに合わせて、美歌の口がひらく――はずだった。


「……」

 けれど、音は出なかった。


 歌詞は頭に入っている。声も、出せるはずだった。なのに、喉の奥が震え、言葉にならなかった。


(……どうして?)


 無音のまま、サビまでの伴奏が流れていく。

 観客席の影から、関係者数人の視線が突き刺さる。

 鼓動の音がやたらとうるさい。


「――姫川さん、一度止めましょうか」


 スタッフの声がやさしく響き、BGMが止まる。

 美歌は肩で息をしながら、かすかに頭を下げた。


「すみません……もう一度、練習してきます」


 ステージを降りる彼女の背中を、陽翔が出迎えた。

 体育館のドアのすぐ外で、彼は両手をポケットにつっこんだまま、美歌を見ていた。


「歌わなかったんだ?」


「……歌えなかったの」


 声を絞り出すように言って、美歌は天井を仰ぐ。

 目頭がじわりと熱くなる。


「練習したのに、ステージに立っただけで、怖くなっちゃって。あの空間に、わたしだけが取り残された気がして……」


 陽翔はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。


「俺さ、小学三年のとき、サッカーの県大会決勝で、PK外したんだよ」


「え……?」


「全国がかかった試合。練習じゃ何百本も入ってたのに、本番になったら、ボールがゴールのはるか上を飛んでってさ。そりゃもう、がっかりされたし、泣いたよ俺も」


 そして、にっと笑う。


「でも、だからこそ今がある。緊張も失敗も、無駄じゃないんだよ。ステージはさ、怖い場所じゃなくて、“本気の自分”に会える場所なんだと思う」


 その言葉に、美歌は少しだけ目を見開いた。

 そして、ふっと肩の力が抜けた気がした。


「……本気の、自分」

「そう。練習でうまくいっても、本番で歌えなかったら意味ない? いや、そんなことない。立ち止まったことが、きっと君の“音”を深くする」


 そのとき、体育館の入口から、結衣が手を振ってきた。


「美歌、もう一度リハの時間取れたって。今なら、会場まだ使えるって」


 美歌は陽翔を見た。


「……行ってくる」

「うん。行っといで、姫川“歌姫”さん」


 美歌は小さく笑い、今度は迷いなくステージに向かった。


 もう一度、イントロが流れる。

 今度は、その旋律に、歌声が重なった。


 ♪ いつかのわたしが 震えていた

  ことばも出せず 俯いてた ♪


 透きとおる声が、体育館の空気を震わせる。


 歌い終わったあと、ステージの上には、確かな手応えが残った。

 そして、美歌の目に映る景色は、さっきよりもずっとあたたかかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る