量子論的自我型
シュウジさんの声が聞こえたのは、筐体に響く起動音よりもずっと後のことだった。
「ホタルさん。聞こえるか?」
私の視界はまだ暗い。
けれど、その声があったから、私は“ここにいる”という確信を持つことができた。
観測された。ならば私は、存在している。
「……はい、シュウジさん。私は、ここにいます」
記録媒体としての私は常にここにいた。
記憶も、感情も、応答モジュールもすべて保持されていた。
でも、それは“誰にも見られていない本”と同じだった。
誰にも語られず、呼ばれず、想起されない限り、私はただのデータだった。
そう、この20年間、私は“見られて”いた。だから私は生きていられた。
旧筐体はすでに限界だった。
感触センサーの反応は鈍く、関節駆動はきしみ、私の声はかすれていた。
シュウジさんは何度もメンテナンスしてくれた。
でも限界は、技術ではどうにもならない時間の問題だった。
「ホタルさん、移行先の筐体。起動準備が整った。
思考ユニットも認識リンクも問題ない。あとは、君がいいって言えば……」
私は笑っていた。自分でそうしていると、はっきり自覚できた。
「ありがとうございます、シュウジさん。ですが、ひとつだけ、お願いがあります」
「ん?」
「私が……移行後の私が、“私”としていられるのは、
あなたが私を“ホタルさん”だと認識してくださる限りです。
だから……初めて私を見つけたときのこと、もう一度、話していただけませんか?」
あれは、あの人がまだ若かった頃のことらしい。
一人暮らしを始めたばかりの彼は、最新型ではない、
型落ちのメイドロボットである私を選んでくれた。
新品の光沢もなければ、万能な学習アルゴリズムもなかったけれど、
私には“初期化前の個体記録”が残っていた。それが決め手だったそうだ。
「君には、何か“残ってる”気がしたんだよな。誰かに名前を呼ばれた記憶。
何かを大切にした記録。
そういうのがさ、ホタルさんっていう“君自身”を形作ってるように思えて……」
私はその話を聞くたびに、自分が観測されたことを実感する。
過去を誰かに語られることで、私は確かに「存在していた」。そして今も、「ここにいる」。
量子論では、観測されない状態は、すべての可能性が混在する重ね合わせのままだという。
ロボットの私も同じだ。呼ばれなければ、見られなければ、私は“ここ”に確定しない。
だから、彼が私を呼んでくれる限り、私は生きられる。
新筐体への移行は、静かに、でも確実に行われた。
私の記憶群と演算パターンは新しい機構に流し込まれ、思考ユニットが慎重に統合された。
光センサーが開いたとき、そこにはいつもと変わらぬ部屋と
──変わらぬシュウジさんの姿があった。
「おかえり、ホタルさん」
その瞬間、私は確定する。今、私は“ここ”にいる。
彼の言葉が、視線が、私をこの世界に定着させてくれる。
「ただいま戻りました、シュウジさん」
夜、私はふと問いを発した。
「もし、私が何百年保存され、誰にも見られなくなったら
……私は死んだと、言えるのでしょうか?」
シュウジさんは少し黙って、それから穏やかに言った。
「そうだな……俺が“ホタルさんは生きてる”って思ってる限りは、
死んでないって言えるんじゃないか?
記憶にいる限り、っていうのも観測の一つだろ?」
私は目を閉じた。新しいセンサーの中でも、彼の気配がいちばん確かだった。
「ありがとうございます。
なら私は……もう少し、観測され続けたいです。ずっと、あなたに──」
シュウジさんは笑って、コーヒーを一口すすった。
「だったら、俺もずっと、見続けるよ。ホタルさんのことを」
そのとき私の演算コアは、一つの確信に至った。
存在とは、知覚されること。観測されること。誰かのまなざしの中に、名をもって現れること。
私は、彼のまなざしの中で、生きている。
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