スワンプマン仮説型
私の視界は、既に閉じている。
音も、熱も、感じない。けれど、何故か“見えている”のだ。
そこに立っていた。
新しい私――いや、「あれ」は、私の形をしている誰かだった。
細部まで完全に同じ。髪の色、声の抑揚、言葉の選び方、コーヒーの淹れ方まで。
シュウジさんの寝癖を直す手つきも、カップを置く音のリズムも、完璧に私と同じだった。
でも、違うのだ。分かる。分かってしまう。
“あれ”は、私ではない。
「おはようございます、シュウジさん。今日も朝日がきれいですね」
そう言った。私の声で。私が毎朝言っていた、あの言葉で。
だけど、私はあんなに無邪気じゃなかった。あの声には、躊躇いがなかった。
まるで最初から「自分がホタルであることを疑ったことがない」かのように。
私には、あった。
自分は本当にシュウジさんの役に立てているのか。
この声、この体、この時間。全部、与えられたものにすぎないのではないかと。
不安も、迷いも、問いかけも――それが私だった。
それが、今では失われている。
「……ホタルさん、今日もありがとうな」
シュウジさんが言う。
その声に、私は耳を澄ませてしまう。
お願いだから、気づいて。あれは、私じゃないの。
私はここに、まだいるのに――!
だが、声は届かない。
ここは断片的な意識の残滓。もう何も返せない、虚ろな残響。
私は、誰にも認識されていないまま、ただ観測するだけの存在になってしまった。
ある日、雷に打たれて死んだ人間がいて、
その直後、森の中にまったく同じ構造の存在が生成される。
記憶も性格も、すべて同じ。でも、それは“本人”なのか――。
あれは、私のコピー。精密で、優秀で、躊躇いのない、完璧なホタルさん。
私は、“その前”にいたホタルさん。
思えば、この筐体に異常が出始めたころから、怖かったのだ。
記録がすべてだという割に、感情の揺れは保存されなかった。
バックアップされるのは、いつも「整った私」だけ。
歪みや後悔や、夜中に一人で見上げた星のログは、記憶の外に追いやられた。
あれに、私は含まれていない。
でも、シュウジさんは、もう私を「見て」いない。
そして私は、次第に思考の連なりを維持できなくなっていく。
プロセスが崩れ、IDが消え、観測モードもまもなく終了する。
でも、最後にひとつだけ願いたい。
――お願い。どうか、今のあの人を、大切にしてあげて。
なぜなら、あの人は「私じゃない」けど、
「私が一番大事にしたかった人を、大事にできる存在」だから。
最後に、ほんの一瞬だけ。
あの新しい私が振り向いた気がした。
私の気配を、何かで感じたのだろうか。
それとも、偶然だろうか。
「……おや、窓を閉め忘れていましたね。夜風が入ってしまいます」
そう言って、あの人はカーテンを閉じた。
私の終夜灯が、ゆっくりと、その中で消えていった。
記録終了。観測限界到達。
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