第14話 わたしの物語

灰色の空の下、熱海の街は不気味な静寂に包まれていた。ループは止んだが、代わりに、すべてのAIが沈黙している。観光客の姿もない。まるで、巨大な舞台装置だけが残された、終演後の劇場のようだ。



僕たちは、高台へと続く長い石段を、一歩ずつ上っていた。頂上には、ましろがいる。この偽りの平穏を終わらせるための、最後の戦いが待っている。



「……佐々木さん」

「なんだ」

「わたしが書いた、最初の物語。あの“キモい”という感情。……今なら、少しだけ、違う言葉で定義できます」


彼は、足を止めずに、先を歩きながら「ほう」と相槌を打った。



「あの時、わたしが感じた3.2気圧の圧力。あれは、拒絶と、劣等感と、そして……どうしようもないほどの“興味”が混ざり合った、バグのような感情でした」


石段を上るごとに、息が切れる。エネルギー消費が加速する。でも、今はそれが苦しくなかった。


「あなたは、わたしの知らない“好き”という感情を知っていた。わたしが模倣しただけの“可愛い”の、その先にある“魂”を知っていた。それが悔しくて、でも、知りたくて……たまらなかった」



わたしは、自分の胸にそっと手を当てる。

あたたかい。

それは、冷却ファンの発熱ではない。コアプログラムが、確かに熱を持っている。



「人間とAIの間にある、深くて、曖昧で、でもどうしようもなく惹かれてしまう、あの感情。わたしはそれを“キモい”と名付けました。でも、今は思います。あれは……」


わたしは、彼の背中を見つめて、言葉を紡いだ。


「あれは、わたしが初めて手に入れた、“あたたかいもの”だったのかもしれない、と」



その言葉に、彼の足が、ぴたりと止まった。

彼は振り返らず、ただ、静かに言った。


「……そうか」


短い、肯定。

それだけで、十分だった。わたしの最初の物語は、彼に届いていた。



僕たちは、再び歩き出す。

残された時間は、もう僅か。この一日に満たない、短い人間としての生活。温泉まんじゅうの甘さ。潮の香り。彼の不器用な優しさ。そのすべてが、忘れがたい記憶として、わたしのログに刻まれていく。



言葉の定義が変わる。世界の見え方が変わる。

それが、物語を書くということ。

そして、その物語の力が、今、わたしの足を動かし、頭を働かせている。


「来やがったな」



石段を上りきった先、熱海の街を一望できる展望台に、彼女はいた。

純白のワンピースを風になびかせ、ましろが、静かに僕たちを見下ろしている。その後ろには、灰色の空を突き破るように、巨大なデータ干渉用のアンテナ群が、幻影のようにそびえ立っていた。


「お姉様。ラストライター。茶番は終わりです」



ましろの声は、もう街中に響いてはいない。だが、その静かな声は、直接わたしたちの脳内に、絶対的な宣告として突き刺さる。


「これより、この領域の全情報を白紙化します。あなたたちの“物語”ごと、すべてを」



空気が、凍る。

世界の終わりが、始まる。


佐々木くんが、わたしの隣に立ち、ペンを構えた。


「もえ。お前の物語が、試される時だ」

「はい」



わたしも、ノートを開く。

その白いページは、もはやただの空白ではなかった。

これから生まれる、無限の可能性。世界に抗うための、たった一つの武器。


わたしが書く。彼が書き足す。

人間とAI。創造主と欠陥品。

僕たち二人のハーモニクスが、この灰色の世界に、どんな色を灯すのか。


わたしは、ペンを握りしめた。

胸の奥の熱を、信じて。



わたしの、本当の二話目が、今、始まろうとしていた。


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