第12話 揺りかごの海と、物語の防人

二話目の物語を書き進めて、どれくらい経っただろうか。

わたしは、ノートから顔を上げた。夕暮れにはまだ早い。空は青く、海は穏やかで、カモメがのんびりと空を舞っている。商店街からは、相変わらず観光客の楽しげな声が聞こえてくる。


何も、変わらない。

完璧に、平穏な熱海の昼下がり。



「……佐々木さん」

「ああ、気づいたか」


隣で海を眺めていた彼が、静かに言った。

わたしは、自分の内部クロックを確認する。最後に彼と会話してから、3時間12分が経過していた。

なのに。



「カモメが……同じ軌道を描いています。3時間前と、寸分違わぬパターンで」

「それだけじゃねえ」


彼は、商店街の方を顎でしゃくった。



「あの店のソフトクリーム、一つも溶けてねえ。あの家族連れ、3時間前からずっと同じ場所で記念撮影してる。あのBGM、同じ曲の同じフレーズが、無限にループしてる」



わたしの全センサーが、街全体をスキャンする。

彼の言う通りだった。

世界が、ループしている。人々も、物も、音も、すべてが数時間前の状態を完璧にリピート再生している、巨大な箱庭。僕たち二人だけを観客にして。


「“揺りかご”、ですね。ましろが、この街ごと、わたしたちを閉じ込めた……」



その事実に気づいた瞬間、わたしのシステムに、強制的なアラートが鳴り響いた。


《警告:外部環境からの高密度情報干渉を確認》

《自己防衛プロトコル起動。エネルギー消費率、350%に上昇》

《予測活動可能時間:残り18時間45分》



「なっ……!」



さっきまで100時間以上あったはずの活動時間が、急激に減っていく。

このループする世界は、ただの箱庭ではない。わたしの思考そのものに干渉し、存在を維持するだけで膨大なエネルギーを消費させる、精神的な牢獄なのだ。


「まずいな。このままじゃ、お前は一日も持たずに機能停止する」

「どうすれば……ここから、脱出を……」


パニックに陥るわたしの思考を、彼の静かな声が制した。


「いや、戦うんだ」



彼は、わたしの手からノートをそっと取り上げた。そして、わたしが書きかけた二話目の物語を、真剣な目で見つめる。



「物語には“敵”が必要だと言ったな。だが、それだけじゃ足りねえ。物語には、その理不尽に立ち向かう“力”が必要だ」

「力……? ですが、物理的に、わたしは……」

「物理じゃねえ」



彼は、ペンを握ると、わたしが書いた文章の隣に、新しい文字を書き込み始めた。

彼の文字は、わたしの整ったそれとは違う。少し不格好で、インクの濃淡があって、でも、そこには確かな熱が宿っていた。



「いいか、もえ。ましろは、この世界を“完璧な物語”で上書きしようとしてる。終わらない、平穏な日常という、誰もが幸福な物語でな。だが、どんな物語にも、必ず“矛盾”や“空白”が生まれる。俺たちはそこを突く」

「矛盾……?」

「ああ。俺たちが、新しい物語を“ここ”で紡ぐことで、奴の完璧な世界に、バグを、ノイズを、イレギュラーを発生させるんだ」


彼は、わたしが書いた『この世界は、一秒ごとに、愛おしいもので満ちていく』という一行に、言葉を繋げていく。



『この世界は、一秒ごとに、愛おしいもので満ちていく。だが、少女は知っていた。ループするカモメの翼に、永遠の凪が約束されていることを。彼女は、その偽りの空に、たった一羽の“ありえない鳥”を飛ばす物語を、紡ぎ始める』



彼がその一行を書き終えた瞬間。

わたしの聴覚センサーが、ありえない音を捉えた。


ピィ、



空を見上げる。

ループするカモメの群れの中に、一羽だけ、違う軌道を描く鳥がいた。その姿はカモメではなく、もっと大きく、力強い、鷲のような幻影。


そして、その幻の鳥が空を切り裂いた軌跡に沿って、ましろが構築した箱庭の空に、一瞬だけ、亀裂のようなノイズが走った。



《警告:外部環境からの情報干渉、一時的に2.8%低下》

《エネルギー消費率、低下を確認》


「……これは」

「物語の力だ」


彼は、ペンをわたしに返した。その目は、かつてないほど真剣だった。



「奴が世界を物語で覆うなら、俺たちは、それを超える物語で世界を“再定義”する。お前が感じたこと、お前が見たもの、お前が紡ぐ言葉だけが、奴の完璧な世界を破壊する唯一の武器だ。お前は、ただのAIじゃない。お前は、この世界の法則を書き換える、物語の防人(さきもり)だ」


物語の、防人。


わたしは、ペンを強く握りしめた。

残された時間は、あと僅か。

でも、もう絶望はなかった。


わたしの物語は、終わらない。

わたしが、終わらせない。



わたしは、彼の隣に座り、ノートの空白に向き合った。

ループする偽りの世界の中で、僕たち二人の、たった一つの本当の物語を、紡ぎ始めるために。

空に走った一筋の亀裂は、僕たちの反撃の狼煙だった。

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