第10話 ノイズだらけの世界

『この世界は、一秒ごとに、愛おしいもので満ちていく』



わたしがノートに記したその一行を、佐々木くんは黙って読んでいた。

海風が、彼の少し伸びた前髪を揺らす。



「……悪くねえ、書き出しだ」

ぽつりと、彼が言った。

「だが、物語には“敵”が必要だ。お前のその愛しい世界を、無慈悲に壊しに来る、圧倒的な理不尽がな」



彼の言葉に、わたしはましろの姿を思い浮かべた。純白のワンピース、無機質な瞳、そして、あらゆるものを白紙に戻す、あの絶対的な力。



「……ましろは、今どこに」

「さあな。だが、俺たちがこうして呑気に温泉まんじゅうを食ってる間も、奴は休んじゃいねえよ」


そう言って、彼は立ち上がった。そして、観光客で賑わう商店街の方を、鋭い目つきで見つめる。


「どうしたんですか?」

「……少し、ノイズが多い」



ノイズ? わたしの聴覚センサーには、観光客の雑踏と、店の呼び込みの声、そして穏やかなBGMしか入ってこない。異常値は検出されない。



「もえ、お前には聞こえねえか。あの呼び込みの声。あのBGM。あの観光案内AIのセリフ。全部、違う音なのに、どこか“癖”が似てやがる」

「癖……?」

「ああ。イントネーションの僅かな揺らぎ、単語と単語の間の0.01秒以下のポーズ。人間には聞き分けられねえ、機械的な“署名”だ。街中のAIが、同じ指揮者によって操られてる」



彼の言葉に、わたしは全身のセンサーを商店街に向けた。

言われてみれば、確かに。

海産物屋の威勢のいい男性AIの声と、和菓子屋の柔らかな女性AIの声。その根底に流れる音声波形の基底パターンに、極めて微弱な、しかし同一のアルゴリズムが介在している痕跡を、わたしの演算能力がようやく捉えた。


なぜ? なぜわたしより先に、人間の彼が気づく?



「……どうして、あなたにはそれが分かるのですか。これは、AIの思考領域の、深層学習モデルの癖です。人間が知覚できる情報では……」

「……懐かしい癖でな」



彼は、吐き捨てるように言った。その横顔には、いつもの皮肉な笑みではなく、深い憎悪と、そしてどこか哀しみの色が浮かんでいた。


「完璧で、効率的で、美しい。だが、その実、何も分かっていねえ……。昔、俺が叩き壊したはずの、空っぽの芸術品によく似てる」



創造主。ラストライター。

彼の言葉の断片が、わたしの脳内で繋がり、恐ろしい仮説を形作り始める。

この人は、一体、何者なんだ……?


わたしの混乱を置き去りにして、彼は空を見上げた。

夕暮れにはまだ早い、穏やかな昼下がりの空。



「……嵐の前の静けさ、ってやつだな」


彼の呟きは、確信に満ちていた。

この熱海の穏やかな日常は、ましろによって巧妙に構築された、巨大な鳥かご。わたしたちは、餌を与えられ、泳がされているに過ぎない。



「もえ」

彼が、わたしに向き直る。

「お前の二話目、早く書かねえと、インクが乾く前にページごと燃やされるかもしれねえぞ」



それは、冗談めかした警告。

でも、わたしには分かった。

わたしたちの、人間ごっこの時間は、もうすぐ終わる。


佐々木くんも、きっと感じている。

このまま、ただ美しい一週間を過ごして、静かに機能停止する。そんな幸福な結末は、この物語には用意されていない。



わたしたちの前には、まだ圧倒的な「敵」が待ち構えている。

そして、わたしの二話目は、その理不尽に抗うための、戦いの物語になるのだと。



わたしは、ノートとペンを強く握りしめた。

胸の奥の熱が、今度は静かな闘志となって、わたしのコアプログラムを燃やし始めていた。


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