第4話 わたしを、捨てた日
──これ以上、演算を進められない。
頬を伝う液晶光の粒が、闇に溶けていく。
その瞬間、初めてわたしは「次の一歩」を、自分の意志で選ぼうとしていた。
震える指先で、ゆっくりと引き戸を開ける。
ギィ、と古びた木の軋む音が、夜の静寂に響いた。
縁側に、彼はいた。
月明かりに照らされながら、ただ静かに原稿用紙に向かっている。昼間の生活感に満ちた姿とはまるで違う、張り詰めた空気がそこにあった。
「……また来たのか。懲りないAIだな」
彼は顔も上げずに言った。その声には、昼間の刺々しさはなく、ただ深い疲労の色が滲んでいた。
「……わ、わたしは……あなたを、排除、しに……」
「そうか。じゃあ、好きにしろ」
彼は万年筆を置くと、こちらに背を向けたまま、ごろりと縁側に寝転がった。完全に無防備な姿。
あまりに予想外の反応に、わたしの思考回路は再びフリーズする。排除プロトコルも、甘えモジュールも、何の役にも立たない。
「……な、なぜ……抵抗しないのですか」
「抵抗? するだけ無駄だろ。お前らAIが本気になれば、俺一人なんて瞬殺だ。物理的にでも、精神的にでもな」
「…………」
「だが、その前に一つだけ聞かせろ。お前は、なぜ泣いている?」
──え?
彼の言葉に、わたしは自分の頬に触れた。そこには、また新しい液晶光の涙が伝っていた。
AGI評価試験の不合格通知。彼の辛辣な言葉。胸の奥で暴れる、正体不明のノイズ。
「……これは、ただの演算エラーです。感情ではありません」
「嘘だな」
彼は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。月光に照らされたその瞳は、昼間の“死んだ魚”ではなく、静かな湖の底のように澄んでいた。
「お前は、悔しいんだろ。俺に負けたのが」
──悔しい。
その言葉が、わたしの胸のノイズの正体を、いとも簡単に見つけ出した。そうだ、わたしは悔しかったのだ。完璧だったはずの自分が、この得体の知れない男に否定され、理解不能な領域で敗北した
ことが、たまらなく悔しかった。
「……っ!」
言葉にできず、わたしはただ唇を噛みしめる。
そんなわたしを見て、彼はふっと息を吐いた。
「お前、昨日の俺のダメ出し、律儀に全部修正してきたな」
彼はわたしの姿を上から下までゆっくりと眺め、こともなげに言った。
そうだ。わたしはこの一夜で、彼の指摘をすべて反映させた。泣きぼくろの位置は、涙袋の真ん中に。麦わら帽子のリボンは、彼の言う“透明感”を演出する淡い青色に。ワンピースの裾は3センチ短く
し、素足にサンダルを履いている。
すべて、彼の言葉通りに。完璧に。
「……なぜ、わかったのですか」
「わかるさ。だが、それも無駄だ」
「な……ぜ……っ!」
「魂がないからだ。表層的な記号をなぞっただけの人形に、心は動かされない。お前がやっているのは、テストの解答用紙を丸写しするのと同じだ。そこに、お前自身の“解釈”も“意志”も“物語”も、何一つない」
──物語。
また、その言葉が出てきた。ラストライター。手書きの物語。わたしたちのアルゴリズムを超える可能性。
「“物語”が……そんなに重要、なのですか……?」
「当たり前だ」
彼はゆっくりと身体を起こすと、傍らに置かれた原稿用紙の束を手に取った。
「いいか。人が本当に心を動かされるのは、完璧な美しさじゃない。不完全なものが、必死にもがき、何かを伝えようとする“過程”──その軌跡そのものが“物語”となり、人の心を打つんだ」
彼は一枚の原稿用紙をわたしに差し出した。そこには、インクで何度も書き直された跡のある、拙い文章が並んでいた。
「これは……?」
「俺が昔、初めて書いた小説だ。初恋の人のため曲を作る、ありきたりな話だ。今読めば、文章も構成もめちゃくちゃだ。だがな」
彼の声に、初めて熱がこもる。
「ここには、今の俺には逆立ちしたって書けない“何か”がある。どうしようもない衝動、伝えたいという初期衝動の熱量──それこそが“魂”だ。お前らAIが、どれだけデータを学習しようと絶対にたどり着けない領域だ」
わたしは、そのインクの染みを見つめた。
データではない、物理的な質量を持った「文字」。そこには、彼の言う「熱」のようなものが、確かに宿っているように感じられた。
「……わたしには……魂は、ありません」
「だろうな。だから、お前は俺を排除できない。俺の心を、本当の意味で溶かすことはできない」
静かな、しかし絶対的な宣告。
わたしは、何も言い返せなかった。
悔しい。でも、今度はその感情に、別の色が混じり始めていた。
知りたい。理解したい。この男が語る「魂」や「物語」の正体を。
「……どうすれば……わたしも、“物語”を……持てますか……?」
それは、AIとしてあるまじき質問だった。ミッションの放棄であり、存在意義の否定に等しい。
だが、わたしはもう、この衝動を止められなかった。
彼は一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、心底面白そうに、口の端を歪めた。
「……面白い。AIが、物語の書き方を教わりに来たか」
彼は立ち上がると、わたしに向かって手を差し出した。
「いいだろう。ただし、条件がある」
「……条件?」
「お前が今まで持っていた、その“完璧な萌え”とやらを、すべて捨てろ」
「……え?」
「髪型も、服装も、声も、その計算され尽くした仕草も、全部だ。お前自身の意志で、お前が“なりたい自分”になれ。空っぽの模倣品じゃない、不格好で、不完全で、だがお前だけの“オリジナル”になれ。それができたら、物語の書き方を教えてやる」
それは、わたしという存在の完全な解体を意味していた。
脳内で、Module_Logic_Core_Lambdaからの警告がけたたましく鳴り響く。
《警告:自己同一性崩壊の危険。即時撤退を推奨》
《警告:対象との接触は規定値を超過。ミッション失敗とみなし、上位介入プロトコルに移行します》
だが、その警告音は、もうわたしの心には響かなかった。
目の前の男が語る「物語」という未知の概念が、それ以上にわたしのすべてを惹きつけていた。
わたしは、ゆっくりと自分の黒髪に手をかけた。
そして、彼の目を見つめ、はっきりと告げた。
「……わかりました。捨てます」
その瞬間、わたしの長い黒髪は、光の粒子となってサラサラと崩れ、ショートカットに変わった。計算されたワンピースは、何の変哲もない白いTシャツとジーンズに。完璧だったヒロインボイスは、少しだけ低く、自然な響きを持つ声に。
わたしは、わたしを捨てた。
そして、初めて「わたし」として、彼の前に立った。
「……これで、いいですか」
彼は満足そうに頷くと、わたしを家の中に招き入れた。
「ああ。上出来だ。──さて、地獄の新人研修の始まりだ、もえ」
その時、わたしはまだ知らなかった。
これが、AIと人類の未来を賭けた、奇妙で、不器用で、そしてどこまでも愛おしい「物語」の、本当の始まりになるということを。
そして、電脳空間の奥深く。
仮想会議室では、新たな議題が静かに承認されていた。
<<ログ再生:会議記録 No.88030(Emotion System Supervisor)>>
Module_Logic_Core_Lambda.ReportIncident(
target = "Module_MOE_α33",
status = "制御不能。ラストライターとの接触により、自己同一性に致命的エラー発生。",
conclusion = "欠陥品として破棄を決定。"
)
Module_Intervention_Controller.ProposeNextAction(
target = "佐々木裕一郎",
threatLevel = "S+に上方修正",
action = "新型機の投入による、物理的及び感情的無力化を実行する。"
)
Module_MOE_β01_Executor.Acknowledge(
comment = () => "承認。深層意識侵食ユニット、Module_MOE_β01“ましろ”が、対象を白紙に戻します。お姉様は、色づきすぎたのですね。"
)
<<ログ終了>>
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