第12話 呼ばれない名前

椎名美咲は、今日も誰からも名前を呼ばれなかった。


朝、目が覚めたときには、もう夕方だった。

古びたワンルームの窓には遮光カーテンが貼られ、部屋の中は時間の気配を拒んでいた。

携帯電話は机の上で電池を切ったまま、もう何日も動いていない。鳴ることもない。鳴らしてくれる人もいない。


天井の染みを見つめながら、彼女はふと思った。

――私、何日分のごはん、食べてないんだろう。


冷蔵庫は、何も入っていなかった。

台所の隅に置かれたゴミ袋の中で、腐ったレタスが液状になっていた。


食欲はなかった。水だけで、まだ生きていける。

テレビもネットも、つけない。

ニュースを見ると、腹が立つからだ。

誰かが幸せそうに笑っていたりすると、喉の奥がざわつく。

この世で自分だけが忘れられているような錯覚に、いや、もう錯覚ではない現実に、気が遠くなる。


美咲はベッドの下から古い封筒を取り出した。

祖母から届いた、最後の手紙。手の震えた文字で書かれたその手紙を、何百回と読み返していた。

「みさき、あんたが幸せならそれが一番。ばあちゃんはいつでも、あんたの味方だよ」

そのばあちゃんは、先月亡くなった。

葬儀には間に合わなかった。

連絡は届いていたが、行く金がなかった。


彼女の世界は、その日を境に静かに崩れ始めた。



夜。

鏡の前に立った美咲は、そこにいる“何か”をじっと見つめた。

髪はぼさぼさで、肌はやせ細り、瞳は沈んでいた。

だが、それだけではない。

映っている“それ”が、時折、自分ではない“別の誰か”のように見える瞬間がある。

顔の輪郭が歪む。まるで、獣のような影が皮膚の下を這っている。

「――誰か、私の名前を呼んでよ……」

思わず口からこぼれた言葉が、鏡の中で反響した。

返事はなかった。

だが、どこか遠く、誰かの喉が低く唸るような音が聞こえた気がした。


次の夜、美咲の姿は、新宿の雑居ビル街にあった。

震える足取りで、灯りの漏れるバーの扉を開ける。

中から聞こえる、笑い声、酒のグラスが触れ合う音。


誰も彼女に気づかない。

誰も、彼女の名を呼ばない。


ただ、体の奥で何かがうごめく。

喉が焼けるように渇く。

耳の奥で、ばあちゃんの声が何度も再生される。

「みさき、幸せにおなりよ」

次の瞬間、扉の向こうで――

“獣の咆哮”が響いた。


それでも美咲は、かつて自分に名前があったことを、まだ覚えていた。

思い出すのは、青白い蛍光灯の下。

中学校の廊下で、誰かが叫ぶように彼女の名前を呼んでいた。

「おい、椎名ぁ!」

投げつけられるのは声ではなく、蔑みだった。

ロッカーを開けると、教科書が破られて突っ込まれ、体操服は水浸しだった。

机の上には、“死ね”の落書きが消しきれず残っていた。

名前が“呼ばれる”たびに、心臓が縮こまった。

名前が、自分をこの世界につなぎとめている紐のようで、それをみんなに引きちぎられていく感覚。


その頃、唯一、心から安心できる声があった。

祖母がくれる、やわらかな呼びかけ。

「美咲や、今日もがんばったんだねえ」

あの声は、世界にたったひとつの居場所だった。


上京は、逃げだった。

「大学に行く」という理由で田舎を出て、東京の大学に入った。

人の多さに目眩がし、教室では誰とも目を合わせられなかった。


けれど、自分の名前をちゃんと呼んでくれる人がいた。

彼は、マッチングアプリで知り合った。

会話が穏やかで、顔をちゃんと見てくれて、笑ってくれた。

「美咲ちゃんって、ほんといい子だよね」

「おばあちゃん、大切にしてるんだ。偉いよ」


そんなこと、誰にも言われたことがなかった。

彼にだったら、おばあちゃんに会わせてもいいと思った。

一緒に暮らせたらいい。そう思った。

だから、信じた。


「アパートを借りる資金が必要で……」という彼の言葉を。

200万円。

少しずつ、ためていた貯金。

気づいたときには、彼の連絡先は消えていた。


警察に相談したが、冷たかった。

「証拠がなければ難しいですね」

「ご自分で判断して送金されたんですか?」

自分の名前が、またどこかで笑われているようだった。

「椎名美咲」という名前が、被害者でさえない、ただの“間抜け”として記録されるのがたまらなかった。


その直後、祖母が倒れた。

電話の向こうで震えるような声が言った。

「……みさきや、心配、しないで……」

それが最後だった。

告別式の連絡は届いた。

けれど、もうお金がなかった。

実家に帰る手段もなく、借金を背負ったまま、彼女は小さな部屋で祖母の死を聞いた。

それから、誰も名前を呼んでくれなくなった。

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