第10話 薄れゆく記憶
死体は、もう警視庁にはなかった。
鑑識報告も、証拠リストも、事件番号さえも。
東雲はデスクに身を乗り出し、警察庁内の検索端末に再びキーワードを叩き込んだ。
「廃ビル」「ライブハウス」「集団暴行死体」――検索結果は、毎回同じだった。
――該当なし。
(あの現場は、確かに存在した。見た。匂いも感じた。記録も、撮影もした……それなのに)
現場で見つけた八体の死体。
引き裂かれた七体の遺体。そして、人間の皮を剥いだような“抜け殻”の死体。
それらすべてが、データベースから消えていた。
自分が撮影したはずの記録媒体にも、何も残っていなかった。
まるで、最初から何もなかったように。
*
夕方、東雲は庁内の鑑識課、生物解析室を訪れた。
その一角に、彼が探している人物がいた。
「来ると思ったわ。捜査一課、こういうの気にするから」
背を向けたままそう言ったのは、栗色の髪をラフに束ねた女性――白神美琴だった。
白衣の下にTシャツとジーンズ。小柄な体格に反して、声には妙な落ち着きがあった。
「例の“皮”の解析、まだ保管してるか?」
「公文書的には“存在してない”ことになってる。でも私は、つまらないものを捨てられない性質でね」
白神はスライド式の冷凍キャビネットから密閉ケースを取り出し、ガラス越しに見せた。
中には、乾いた“人型の皮膚”が折りたたまれて入っていた。
「皮膚っていうより、殻。脱皮後の昆虫の外骨格に近い質感よ。熱も腐敗もない。破れた箇所が“破断”じゃなく、“離層”として計測されたの。つまり……組織が自発的に分離したってこと」
「……人間の皮膚が?」
「常識的には“ありえない”けど、これを人間の遺体と断定するには、サンプル中のDNA情報が曖昧すぎるのよ」
白神は顕微鏡下のスキャン画像を指さした。
「ここ。コラーゲン繊維の向きが真皮と逆なの。まるで、**“裏返して脱ぎ捨てた”**みたいでしょ?」
「……変異の途中で、何かが起きたのか」
「あるいは、“変異が完成した痕跡”かもね」
白神はケースの蓋を閉じ、やや声を落とした。
「一応、DNAはかろうじて一致したわ。“槇原徹”って名前で登録されてた人物。でもね――保険証も住民票も、免許も、契約書も……そのすべてが“現在失効中”。いや、それ以前に、記録がごっそり削除されてるの。まるで最初から存在しなかったみたいに」
東雲はわずかに目を細めた。
「事件記録も、消されてる。俺たちが報告書を上げる前に……」
「そう。あの現場の記録も、検体も、事件性も。まるで“この世に存在しなかった”みたいな扱い。だけど、物証はここにあるし、あなたも現場を見た。それに――」
白神は少し声を潜めて言った。
「変よね……。現場にいた私たちはちゃんと覚えてるのに、マスコミも、上層部も、あの事件を話題にすらしない。……関わりが薄いと、忘れるのも早いのかしらね」
東雲はハッとした。
そういえば、佐藤もライブハウス事件の詳細を曖昧にしていた。
別件の捜査にかまけていたようだが、彼はあの凄惨な光景を見ていなかった。
(他人事として見ていた人間から、事件が抜け落ちていく……。それはまるで、記憶そのものが優先順位で取捨選択されているような……)
「白神……もし仮に、これが“人間を脱いだ何か”だったとしたら、次は何が残る?」
「“名前”よ」
白神は即答した。
「人間を形づくるものは、肉体と記録。それを超えるとしたら――最後に残るのは、“名を与えられていたかどうか”。」
その言葉が、東雲の胸のどこかを強く叩いた。
(名を与えられなかったもの……)
その存在が、社会から、記録から、人の記憶から、まるで最初から“いなかった”ように消えていく。
だが、消されたからといって、そこに“いなかった”とは限らない。
そして今――また、何かが、裏で動いている。
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