第10話 薄れゆく記憶

死体は、もう警視庁にはなかった。

鑑識報告も、証拠リストも、事件番号さえも。

 

東雲はデスクに身を乗り出し、警察庁内の検索端末に再びキーワードを叩き込んだ。

「廃ビル」「ライブハウス」「集団暴行死体」――検索結果は、毎回同じだった。

 

――該当なし。

 

(あの現場は、確かに存在した。見た。匂いも感じた。記録も、撮影もした……それなのに)

 

現場で見つけた八体の死体。

引き裂かれた七体の遺体。そして、人間の皮を剥いだような“抜け殻”の死体。

それらすべてが、データベースから消えていた。

 

自分が撮影したはずの記録媒体にも、何も残っていなかった。

まるで、最初から何もなかったように。

 

 

夕方、東雲は庁内の鑑識課、生物解析室を訪れた。

その一角に、彼が探している人物がいた。

 

「来ると思ったわ。捜査一課、こういうの気にするから」

 

背を向けたままそう言ったのは、栗色の髪をラフに束ねた女性――白神美琴だった。

白衣の下にTシャツとジーンズ。小柄な体格に反して、声には妙な落ち着きがあった。

 

「例の“皮”の解析、まだ保管してるか?」

「公文書的には“存在してない”ことになってる。でも私は、つまらないものを捨てられない性質でね」

 

白神はスライド式の冷凍キャビネットから密閉ケースを取り出し、ガラス越しに見せた。

中には、乾いた“人型の皮膚”が折りたたまれて入っていた。

 

「皮膚っていうより、殻。脱皮後の昆虫の外骨格に近い質感よ。熱も腐敗もない。破れた箇所が“破断”じゃなく、“離層”として計測されたの。つまり……組織が自発的に分離したってこと」

 

「……人間の皮膚が?」

「常識的には“ありえない”けど、これを人間の遺体と断定するには、サンプル中のDNA情報が曖昧すぎるのよ」

 

白神は顕微鏡下のスキャン画像を指さした。

 

「ここ。コラーゲン繊維の向きが真皮と逆なの。まるで、**“裏返して脱ぎ捨てた”**みたいでしょ?」

「……変異の途中で、何かが起きたのか」

 

「あるいは、“変異が完成した痕跡”かもね」

 

白神はケースの蓋を閉じ、やや声を落とした。

 

「一応、DNAはかろうじて一致したわ。“槇原徹”って名前で登録されてた人物。でもね――保険証も住民票も、免許も、契約書も……そのすべてが“現在失効中”。いや、それ以前に、記録がごっそり削除されてるの。まるで最初から存在しなかったみたいに」

 

東雲はわずかに目を細めた。

 

「事件記録も、消されてる。俺たちが報告書を上げる前に……」

 

「そう。あの現場の記録も、検体も、事件性も。まるで“この世に存在しなかった”みたいな扱い。だけど、物証はここにあるし、あなたも現場を見た。それに――」

 

白神は少し声を潜めて言った。

 

「変よね……。現場にいた私たちはちゃんと覚えてるのに、マスコミも、上層部も、あの事件を話題にすらしない。……関わりが薄いと、忘れるのも早いのかしらね」

 

東雲はハッとした。

そういえば、佐藤もライブハウス事件の詳細を曖昧にしていた。

別件の捜査にかまけていたようだが、彼はあの凄惨な光景を見ていなかった。

 

(他人事として見ていた人間から、事件が抜け落ちていく……。それはまるで、記憶そのものが優先順位で取捨選択されているような……)

 

「白神……もし仮に、これが“人間を脱いだ何か”だったとしたら、次は何が残る?」

 

「“名前”よ」

白神は即答した。

 

「人間を形づくるものは、肉体と記録。それを超えるとしたら――最後に残るのは、“名を与えられていたかどうか”。」

 

その言葉が、東雲の胸のどこかを強く叩いた。

 

(名を与えられなかったもの……)

 

その存在が、社会から、記録から、人の記憶から、まるで最初から“いなかった”ように消えていく。

だが、消されたからといって、そこに“いなかった”とは限らない。

 

そして今――また、何かが、裏で動いている。

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