狼憑きの記憶

陵月夜白(りょうづき やしろ)

第1話 プロローグ ー声ー


夜の深さは、静けさと同じではない。

音のない闇のなかに、何かが確かに“在る”とき――それを人は、気配と呼ぶ。

 

東雲(しののめ)は目を覚ました。

枕元に置いた携帯電話が、着信の光だけを震わせている。

部屋の時計は午前3時を指していた。

「……東雲です」

声はかすれ、口内がひどく乾いていた。

電話の向こうでは誰かが名を呼んだ。だが、その“声の主”が誰だったのか、思い出せない。

「……え?」

沈黙のあと、通話は切れた。

ただ、“誰かが自分の名を呼んだ”という事実だけが、耳の奥に残っていた。

 

ふと、寝室の窓が開いていることに気づく。

締めたはずのサッシは少しだけ開き、そこから冷たい風が入り込んでいた。

その風は、なにか――遠くから声のようなものを運んできた気がした。

 

耳を澄ます。

声がする。けれどそれは、言葉ではない。

音でもない。

ただ、“呼ばれている”という確信だけがあった。

 

東雲は、昔の夢を見ていた気がする。

中学生のころ、妹がいなくなったあの夜。

誰もいない林の奥から、小さく声がした気がして、呼ばれるままに草むらをかき分けていった。

結局、妹は見つからなかった。

あの夜の記憶はずっと曖昧で、誰にも話したことがなかった。

だが今――

そのときと同じ感覚が、胸の奥でひそかに疼いている。

 

着信履歴を確認する。

そこには、発信者不明の“空白”がひとつだけ残っていた。

 

東雲は、それをじっと見つめていた。

何かが始まりかけている。

そんな気がした。

 

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