序章 ――屍の笑み

午前3時。

世界が静寂に沈み、人の気配が最も薄れるこの時間、岸川家の居間には、異様な空気が漂っていた。


壁の時計が「3」を指す中、古びたソファに一人の男が座っていた。

薄い毛布が膝にかけられている。照明は点けられておらず、月明かりだけが窓から差し込んで、男の顔を不気味に照らしていた。


その唇には――確かに、笑みが浮かんでいた。


「……嘘でしょう……?」


呟いたのは、岸川紀子。

彼女の顔は蒼白で、眠れない為にキッチンで水を飲もうと手にしたコップを握っていた。


紀子の目線の先にいるのは、岸川誠一郎。

彼女の夫であり、二日前に死亡したはずの男だった。


いや、死亡どころではない。

彼は確かに亡くなった。自宅で倒れ、救急搬送され、そのまま息を引き取った。

病院で医師に死亡確認され、火葬場で荼毘に付された――遺骨も、納骨堂に安置されたばかりだ。


それなのに、いま目の前にいるこの男は、

生前とまったく同じ姿で、

柔らかく目を閉じたまま、

そして――笑って、そこにいる。


息子も娘もいない。夫婦と玲奈の三人だけで暮らすこの家で、彼を見たのは、紀子が最初だった。


「玲奈……玲奈、起きて……! すぐに……」


紀子は階段を駆け上がる。その足取りは、現実を否定したい一心で、浮き足立っていた。


玲奈はすぐに目を覚ました。普段から眠りは浅い。

紀子の表情を見た瞬間、尋常ではないと察し、黙ってスリッパを履いた。


「……誰か、来てるの?」


「……パパ……」


「え?」


玲奈は問い返したが、紀子は首を振ったまま階下へ。

不思議な違和感――冷たい空気、乾いた音、静寂の中にある“重さ”が、玲奈の中で広がっていく。


居間の戸を開けた瞬間、

玲奈の足が止まった。


そこにいたのは、間違いなく岸川誠一郎だった。

その顔、その姿勢、服装までも――


そして、

その笑み。


「……うそ……」


玲奈は絶句した。


彼の口元は、ほんの僅かに持ち上がっていた。

声こそ出さないが、微笑んでいる。

それは優しげでもなく、穏やかでもなく、

どこか**“何かを見透かすような”**、不気味な笑みだった。


* * *


警察が呼ばれた。

遺体の発見という扱いで搬送されたが、「誰なのか」すら断定できないという矛盾が浮かび上がった。


確かに、顔は誠一郎にそっくりだった。

しかし、指紋照合は既に火葬後で不可能。DNA鑑定をするには時間がかかる。

家族の反応も錯綜し、「誠一郎が生きていた可能性」さえ浮上するが、葬儀関係者、病院関係者、火葬場……すべてが「故人は間違いなく死んだ」と証言する。


葬儀の映像もある。

写真、位牌、骨壺。すべて、確かに彼は死んでいた証だ。


にもかかわらず、

あの夜、彼は――帰ってきた。


そして、“笑って”いた。


* * *


「……お母さん、あれは――本当に、パパだったと思う?」


警察が帰ったあとの夜、玲奈はそっと紀子に尋ねた。


紀子は、湯呑を手にしたまま答えなかった。


だが、手が震えていた。


それは寒さでも、恐怖でもなく――

きっと、心の奥にある確信に触れてしまったときの、震えだった。


「ねえ……パパって、そんなに……笑う人だったっけ?」


玲奈の言葉に、紀子の指先が止まった。


――そう。

生前の誠一郎は、穏やかではあったが、

笑う人ではなかった。


だからこそ、あの微笑は不自然だった。

どこか、嘲るようで。

何かを訴えるようで。


それは“死者”の顔ではなかった。

けれど、あれが“生者”とも思えなかった。


その笑みの奥に、何があるのか。

その意味を知るには、まだ時間が必要だった。


ただ一つ、玲奈の中に残ったのは、

あの“死んだはずの男”の笑顔が、まるで――


すべてを見通していたような、笑みだったということ。



---


> ――これは、ある家族の物語。


死者が語らぬのなら、生者が語らねばならない。


『屍を笑うなかれ』――沈黙の中に、真実が眠っている。





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