第4話:逃亡者

 新宿駅に向かう表通りを見渡す。この街にそぐわないような垢抜けない人もいる。太古の昔からこの街で生きてきたのかと思えるような風体ふうていの人もいる。街はいつだってガヤガヤとうるさい。表通りでクラクションの音。遠くで怒声。ゴチャゴチャとした街並みには品性のない明かり。

 そんな景色をぼんやりと眺めながら表通りに出た瞬間だった。目の前を大柄な黒い影がよぎった。


「!」

 その影にぶつかりかけて、慌てて身を引く。すんでのところで衝突を回避した。男は一瞬だけ、驚いたような表情を見せた。

 その顔に見覚えがあった。数日前にこの男を接客した。確か名前は――ケイ。

 彼の腕のあたりに赤い色彩が見えた。ケイは一瞬だけひるんだものの、エナを無視すると驚くほどの俊足で通りを駆けていく。

「待てやコラァ!!」

 怒号。バタバタという足音。黒っぽい服を着たガラの悪い男が3人ほど、ケイを追いかけていった。

 この街は本当に治安が悪い。ケンカやいさかいは日常茶飯事。もはや、あの程度の追いかけっこを気にするような者はいない。道行く人は「なんだろう」「物騒ね」などと口々に言い合いながら歩き去る。そういう通行人を冷たいと言うわけにはいかない。こんな街で、他人をいちいち気遣って生きていくなんて馬鹿の極みだ。

「怪我、してた?」

 路地の入口でエナはぼんやりと呟く。

 腕に赤い色彩があった。一瞬しか見えなかったけれど、衣服も切り裂かれているように見えた。どうにも気になる。足は自然と、駅と逆方向に向かった。そう、今ケイが駆けていった方角へ。


 あの男はこの街を歩き慣れている。それがエナの見立てだった。予想が当たっているのなら、彼はおそらくこの迷路のように入り組んだ街を裏路地へ、裏路地へと逃げたのではないだろうか。

 彼が捕まらずに逃げ切っていることを心の中でそっと祈った。そうしてから思う。何千何万の他人が行き交う街でなぜ自分は、一度しか会ったことがないあの男の無事を祈ったのだろう。きっと自分は、あの男に多少いい印象を抱いているのだろう。

(確かこの辺りにおかしな路地があったはず……)

 記憶を頼りに、ゴチャゴチャとした街並みを進み、店の裏手に入り込む。幅50cmほどの細すぎる路地を抜けて店の裏を右へ、左へ。忍者がからくり屋敷に忍び込むみたいに、さらに細い路地にするりと足を踏み入れた。


「あ……」

 そこに座り込んでいた黒い影。ケイだった。まさか本当に見つけられるとは思わなかった。

 ケイは人の気配に気付き、ぎくりと肩を震わせた。それから、エナの方をじっと見て目を丸くした。きょかれた、といった顔だった。

「ねぇ、その……腕」

 エナは思わず呟く。やはり見間違いではなかった。ケイが押さえている腕からは、血液がぼたぼたと地面に滴り落ちている。

 一瞬考えてから、ためらいなく自分の黒いマフラーを解いた。安いマフラーはペラペラで伸縮性もないからかえって使い勝手が良さそうだ。肩のすぐ下あたりにマフラーを当てる。切り裂かれた服の様子から傷の向きを推定し、包帯のように巻き付けて止血を図る。そうしながら呟いた。

「救急車……」

「だめだ」

 応急処置をしてから病院へ、と思ったのだ。だけど、ケイは即座に拒否した。

「でも……こんな怪我、放置するわけには」

 黒いマフラーには多少血がにじみ始めている。黒だからそれほど目立たないけれど。

「大丈夫だ」

「大丈夫なわけがないでしょう!」

 つい、声を荒げてしまった。内心でしまったと思いながら周囲を見渡す。狭い裏路地にほかに人の気配はないけれど、万一さっきの追手にでも見つかったら大変なことになりそうだ。

「怪我なんてよくあることだし、家に戻れば処置はできる」

 よく怪我をするような人なのに救急車を拒否するのか、と思う。やっぱりカタギではないのかもしれない。ならば、あまり深く関わるのは良くないかもしれない。


 それでも、尋ねてしまった。

「誰か、手当てしてくれる人はいる?」

「いない」

 予測通り。

「あのね、足とかならともかく、自分の腕を1人で手当てできるわけがないでしょ? 私がやる。連れてって」

 勢いで言ってしまった。ケイは眉根をひそめた。

「この街でそんなお人好しなことを言っていたら早晩そうばん身を滅ぼすぞ」

 なんてありがたいご忠告だろうか。そんな甘い街じゃないことくらい百も承知だ。

「それでも私は助けようと思ったら助けるの。さっきの追手はまだそのあたりにいるのかな。もういなくなってるといいね。私と腕を組んだらカップルみたいに見えるでしょ? 怪我した腕を押さえて隠したらいい。さあ、立って。案内して」

 自分でも正気ではないと思う。一度だけ店で指名してくれた客。ただそれだけの間柄だ。そんな薄いえんのために自分の防寒具を犠牲にして、一生懸命な応急処置をして、果ては相手の家まで手当てしに行こうだなんて。


 でも、寒風吹きすさぶこの街を、男の人と腕を組んで歩くのは悪くないと思った。ケイを引っ張り上げるように立ち上がらせたら、あとは腕を覆うようにして彼を支える。自分の半身が温かく感じられて、心が和んだ。

 おそるおそる繁華街を抜け、また裏路地へ。イミテーションの宝石を散りばめたような街を、自分はいつも1人で歩いている。誰かと腕を組んで歩くというのも、たまには悪くない。

 裏路地を右に、左に、右に。そうしてしばらく歩き続け、たどりついた細い路地の果て。ケイはサビだらけの鉄階段を静かに上がる。ここまで来ればもう人の目はないけれど、組んでいた腕を離すタイミングを失った。腕を組んだまま鉄階段を昇るのはなんだか少し滑稽だった。

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