第5章 限界突破の共鳴―蒼鏡湖、決戦の果てに
第1話 峡谷の密約 ― 逃げ場なき滅びの雨
二日前――峡谷の奥。
赤茶けた岩場に、王都兵の死体が散乱していた。
折れた槍と鎧が泥に沈み、裂けた軍旗は血と
滴り落ちる赤黒い液は谷底を黒く濁らせ、蠅の群れがぶんぶんと渦を巻いていた。
その屍をむさぼるのは――
王都にひしめく盗賊団の中でも、最大規模を誇る『盗賊団プーランド・ソープ』。
奴らはまだ温もりを残す死体から指輪をもぎ取り、懐から血に塗れた革袋を乱暴に引き抜くと、中身の金貨がカランと転がり落ちた。
「へっ、こいつはうまい稼ぎだ!」
「鎧ごと売り払えば、銀貨百は堅ぇな!」
その喧騒は、唐突に押し潰された。
――ズズゥゥゥゥン……。
大地を踏み砕く――
盗賊たちの笑い声が途切れ、峡谷の空気がざらつく。
次の瞬間、林が断末魔を上げるように裂け、巨木が軋みながら倒れ伏した。
陽光を遮り、漆黒の
《
五メートルを優に超える怪物。
右腕に握られた
兜のねじれた突起は角のごとく
その目が峡谷を一瞥するだけで、空気は凍りつき――すべての命が“死の宣告”を受けたように押し黙った。
「ひ、ひぃ……!」
「に、逃げろ……ッ!」
盗賊たちは金袋を投げ捨て、蜘蛛の子を散らすように後ずさる。
だが――その群れを押し分け、一人だけが前に出た。
《盗賊団プーランド・ソープ》総頭領、ドドンガ・レイス。
身の丈は二メートル、丸太のような腕に大斧を背負う巨漢の男。
赤黒い殺気を真正面から浴びながらも、その口元には――不敵な笑みが浮かんでいた。
「……ちょっと待ってくれや」
その声は峡谷に反響し、雷鳴のように轟いた。
「俺たちゃアンタとやり合うつもりはねぇ。――共闘しねぇか?」
赤い光がわずかに揺らぐ。
「……共闘?」
「そうだ。俺たちは金が欲しいだけだ。……見逃してくれりゃいい。
その条件があるんなら言ってくれ。アンタの望みをかなえてやる」
数秒の沈黙――谷全体が重く押し潰されるような気配。
やがて兜の奥から、冷たくも揺るぎない声が落ちた。
「――死んだ妻を、死界から呼び戻す。
日が山に沈むとき……《世界律の鍵》を使い、境界を閉じろ」
「……は?」
「扉を閉じねば、死界は開き続け、屍の群れが無限に溢れる。
だが閉じれば、すべては“死”へ還る。吐き出された屍どももまとめて消える。
……そうでなければ、妻に
ドドンガの目が細まる。
「へっ……国を滅ぼす算段かと思えば、そんなことかよ――楽勝じゃねぇか」
――沈黙。
峡谷を吹き抜けていた風が、ぴたりと止む。
岩壁に反響していた盗賊どものざわめきも消え、谷全体が“無音”に押し潰された。
飛び交っていた蠅すら羽音を止め、血の匂いだけが重く残る。
グレイデスの兜の奥で、炎のような赤い光がじわりと揺らぐ。
その静かな睨みが突き刺さった瞬間、ドドンガの背に冷汗が滲む。
「ちょ……ちょっと、冗談だっ……」
巨漢の声がわずかに裏返り、喉がごくりと鳴る。
グレイデスは、ドドンガの言葉を無視するように、淡々と告げる。
「王都の財宝はすべてくれてやる。それが報酬だ。……ただ一つ、その約束だけは果たせ」
一瞬の沈黙――。
次の瞬間、谷を揺らすような豪快な笑い声が轟いた。
「アハハハッ! 脅かすなよ、ったく!
いいぜ、英雄サマよ……アンタの狂気、気に入った!
俺たちも無限のゾンビに埋め尽くされるのはごめんだ。
世界をぶっ壊したあとで、その“扉閉じ”ってやつは――俺に任せな!」
こうして交わされたのは――血と狂気に縛られた“呪縛”であった。
――グレイデスが《世界律の鍵》を奪い、死界より妻を呼び戻したその瞬間。
鍵はドドンガに託され、日が沈む時、境界を閉じる。
その短き猶予のあいだに、グレイデスは己の命を代償にして、かつて救えなかった唯一の妻を蘇らせようとしていた。
……それは、世界を滅ぼす怪物と、ただ一人の女を想う夫との――矛盾に満ちた“悲壮な決意”だった。
◇
現在――蒼鏡湖。
轟音。閃光。
湖畔全体を呑み込む赤黒い渦の中心で、血翼の魔将――ドキュラが立ちはだかっていた。
次の瞬間、背の翼が大きく広がる。
無数の蝙蝠が絡み合い、黒い羽膜を軋ませながらさらに肥大化していく。
――ギュルルルルルッ!!
空気が引き裂かれた。
巨大な羽ばたき一つで地表の岩は粉砕され、湖面は逆巻いて高波を打ち上げる。
圧は地を押し潰し、森を軋ませ、戦場そのものを震わせた。
そして――
――バサァァァァァァァァッ!!!
ドキュラの身体が宙へ舞い上がった。
血に濡れた巨大な翼が昼空を裂き、戦場に圧倒的な影を落とす。
「……なっ……飛びやがった!」
ビズギットが歯を食いしばり、雷光を纏った拳を構える。
「空から……攻撃するつもりです……!」
ニルの蒼い瞳が震え、結界の輪を張り直す。
上空で旋回する影――細身の体に不釣り合いなほど肥大化した血翼。
翼の奥深くへ無数の蝙蝠が吸い込まれ――次の瞬間、鋭利な黒刃となって吐き出される。
黒曜の雨。
――ズバババババッ!!
串刺しにされる大地。
巨木が粉砕され、湖面が幾重もの波紋を広げて崩落していく。
「ぐっ……やまねぇ……!」
ビズギットの頬を掠め、血飛沫が飛ぶ。
「……っ……!」
ニルは隙をついて、カラスの死骸へ魔糸を仕込もうとした――だが、降り注ぐ刃が掠め、白い腕が裂かれた。
瞬間、熱い痛みよりも先に、血が冷たい線となって滴り落ちる。
それでも彼女は歯を食いしばり、死骸を蒼環結界の内側へ引きずり込む。
背筋を伝うのは汗か、それとも恐怖か。
無数の黒刃に包囲され、魂そのものが削り取られていく錯覚が胸を締め付けた。
◇
天を仰ぐ二人を見下ろし、上空のドキュラが咆哮する。
紅の声は雷鳴のように大気を震わせた。
「……見せてやろう、血翼の極致を……!!」
翼の影が、陽を隠し、大地を覆い尽くすほどに広がった。
崩壊と再生を繰り返す群れが渦を巻き、赤黒の光を帯びながら収束する。
「すべてを呑み穿つ――」
空が裂けた。
翼から奔出したのは、天を蝕む紅黒の奔流。
「――
――ドオオオオオオオォォンッ!!!
降り注ぐ黒刃は止むことを知らず、すでに穿たれた地をさらに裂き、針山を広げていく。水面は泡立ち、血の霧に塗り潰され、世界は一瞬で“音と光”を失った。
大地は震えることすら忘れ――“滅びの雨”に塗り潰され続けていた。
◇
その時。
電撃を纏った拳で踏み込んだビズギットの足が、泥に滑った。
「……クッ……!」
片膝をついた彼女が、それでも血を吐きながら笑う。
「あはは、膝が笑ってやがる!」
「……でも、その強がり……たまには私を元気づけてくれます」
ニルが息を荒げつつも微笑む。
汗と血に濡れた顔に、それでも凛とした光を宿して。
「は……? なに言ってやがる……!」
顔は歪んでいても、ビズの瞳もまた、微笑んでいた。
◇
二人の眼差しが同時に空を射抜いた。
血に塗れ、膝を震わせながらも、その瞳は曇らない。
「空から何が降ってこようが――全部ぶっ飛ばしてやるッ!!」
「……ビズ、合わせて。必ず地に落とします」
雷光の拳と、空を狙う魔糸。
血の雨が続く中、二人はなおも上空を睨み据えた。
――かつて、パイ一つで殺し合っていた少女たち。
その二人がいま、死地の只中で笑顔を見せあっていた。
圧倒的不利の中で――
それでも確かに、二人の中には“沈まぬ怒り”が燃えていた。
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