緋色の魔法遣い

NaoyukiOkada

序章

第一話 崇高なる恐怖

 長い冬が終わり、生命が芽吹きはじめた早春。あるところの森深くで、自然の恵みを糧に静かに暮らす小さな村があった。決して多くない人口で、森から伐採した木材を町に卸したり、山菜や木の実、川で取れる魚などを食べる自然に近い生活。そんな村で添い遂げた若い木こりの一家に、一人の少女がいた。

 その少女――アルヴィナは、新月の晩にひとり、村の外で佇んでいた。

村外れに張られた結界。その向こうに広がる、立ち入ってはならないとされる 《禁足森きんそくりん》は、いつもより深い沈黙に満ちている。月明かりのない、瘴気が濃くなるという夜、村法で外出を禁じられたこの日に。

「今夜だけ、ちょっとだけ……」

 その独り言は、自分を励ますためか、それとも戒めを破る罪悪感を和らげるためか。透き通った白い髪から夜露がしたたり、肩先に触れて小さく震えた。

 無謀な冒険の始まりは、些細な喧嘩だった。森へ肝試しに入ったという村の少年から言われたつまらない一言。

『〝白兎〟のお前には一生無理だよ』

 真っ白な髪と白い肌。アルビノの少女を指さして放たれた言葉。それが自分でも抑えきれないほど、胸の奥でじくじくとくすぶり続けていた。

 揺らすと、からからと音で知らせる結界を、触れないようにそっと越える。

 眼の前には来るまでと同じように、暗い森が続いている。なんてことはない、結界を出たからとすぐに恐ろしいことがあるわけではないのだ。

 アルヴィナは、ふうっと深呼吸をした。ここまでやってきた証を持ち帰ろうと、あたりをきょろきょろと見ながらたったの数歩を歩いた、その瞬間。

 突如、あたりの空気が変わった。森の奥から何かの腐ったような臭いが漂い、つんと鼻腔を刺す。感じ取ったら最後、不快さが肺の奥まで染み込んでくる。足元でさくさくと鳴る音からさえも、枯葉ではなく得体の知れないものに触れてしまったかのような不安感が込み上げた。

 目前に立つ木の根本に転がっていた小動物の骨らしきを見つけた。あと一〇歩だけ、と少女は歩き続けてしまった。

 骨を拾い上げて振り返ると、鳴子がひどく遠くに見えた。村の灯りなど勿論届かない。急に不安になり、ようやく引き返そうとしたその時、森の奥で、獣が遠吠えした。低い唸りがこだまする。

 アルヴィナの心臓が跳ね上がった。

「……っ!」

 声が聞こえた森の奥の方を見ても、夜目が効かず何も見えない。しかし――茂みの向こう側に気配があった。

「グルル……」

 全身を緑の粘液が覆う狼、《凶狼サベージ・ルーパス》。もともとは動物であった、今は種そのものが変異してしまった魔物。暗闇に浮かぶ二つの眼が、獲物を見つけて赤く光る――。

 父親は夜回りで不在、友人たちは安らかな寝息を立てている時間。今この瞬間に、村の誰かが自分を見つけだして守ってくれる可能性は絶望的だった。

「近寄らないで!」

 声を振り絞る。話の通じる相手ではないと、わかっていても。

 アルヴィナは思いっきり駆け出した。パニックになり、そちらが本当に村の方角かはすっかりわからなくなっていた。地面からつき出した根やとがった石に何度も足をとられ、背の低い茂みの枝が服の袖に引っ掛かる。ついには足をもつらせてしまい、視界がぐるりと回る。

「お願い、足動いて!」

 起き上がろうと急いでいるのに体はいうことをきかない。時間がゆっくり進むような感覚の中、家族や友人の顔が次々と脳裏をよぎった。

 逃げ隠れたところで、そもそもが無駄なのだ。森の中では、真っ白な髪も肌も、何もかもが目立ってしまう。

 他の狼も集まってきたらしい。背後から次々と悍ましい声が迫ってくる。

 足から履物が脱げ落ち、顔や手を土で汚しながら必死にずり這う。村の中で隠れていないと生きていることすら難しい惨めな自分。悔しくて悲しくて、アルヴィナはぽろぽろと涙を流した。

「誰か、助けて――!」

 ああ、なんて無意味な命だったんだ。そう絶望しかけた、その瞬間――


 ドオオンッ!


 森中の大気が弾けた。衝撃が鼓膜を揺さぶり、眩しさに目を細めた刹那、世界が紅蓮に染まる。灰混じりの熱風が頬を殴りつけた。

 アルヴィナは視線を、ゆっくりと上げる。

 燃え盛る吐息。月の無い漆黒の夜空を背景に、赤色に照らされた大きな翼が左右へ炎を撒くように広がった。

 この世界に生きる、誰ひとりと見たことのない〝獣〟。

 その巨躯からは想像できないほど素早く、しかししなやかに〝それ〟はアルヴィナのすぐ側に着地した。翼をゆっくりと広げると、大きく裂けた口を広げて雄叫びをあげた。思わず足が崩れ、頭から何かが突き抜けていくような感覚。その声は、アルヴィナが知る生き物とも魔物とも、生まれてから聞いたどんな音とも違うものだった。彼の前では何もかもが無力と思えるような、圧倒的な力。

 少女と狼が気圧されていると、彼の口内に一瞬にして生み出された炎の塊が《凶狼》たちめがけて飛び出した。轟音と共に狼の群れにぶつかると、大爆発を起こして狼達を吹き飛ばす。瞬く間に緑の粘液が蒸発し、腐った臭いが広がる。狼は悲鳴を上げる暇もなく、炎の渦へと呑まれていった。

 火に照らされた翼の持ち主――赤褐色の溶鉄のごとき鱗で覆われ、何百年と生きた木のように逞しい四本の足――が、大地を踏みしめた。その威厳に満ちた頭部がゆっくりとアルヴィナの方を向く。


 言葉をなくした。

 ただ立ち尽くすことしかできない。白い髪が熱で揺らぎ、瞳の奥に燃える彗星のような光を映した。

「……〝ドラゴン〟……?」

 少女の頭にふと浮かんできたその名を、アルヴィナは無意識に呟いた。

 その《ドラゴン》と呼ばれた獣は、首を下げてアルヴィナへと顔を寄せた。体から溢れ出る熱、触れてもいないのにどくんどくんと鼓動に似た振動が肌に伝わる。

「助けて……くれたの?」

 少女の震える声に、金色の眼がすっと細められる。獣は何も語らず、返事の代わりとばかりに翼をはためかせた。灰と燃えさしがあたりに巻き上がる。怖い。でも、美しい。幼い少女の胸にはじめて〝崇高〟という感情が芽生えた。

 数度のはばたき後、獣は天へと跳ね上がった。土埃にアルヴィナが顔を覆っている間に、翼の主はあっという間に姿を消していた。




 炎が鎮まると、森は再び闇を取り戻した。

 先程まであちこちから響いていた《凶狼サベージ・ルーパス》の唸り声も、あの赤き獣の咆哮も聞こえない。静寂だけが、夜を支配していた。

 少女は眼の前で起きたことが現実なのか、それとも恐怖が視せた幻だったのかを確かめるため――黒く燃えた跡に歩み寄る。

 焼けて倒れた木から立つ白煙の臭い、腐肉が焼けたような不快な臭い。まだ冷めぬ地面の熱も裸足で感じながら、アルヴィナは歩いた。やがて、灰の中へ膝をついた。

(幻じゃない……)

 指先で掬うと、灰はすぐさらりと崩れた。あのドラゴンを示す痕跡はどこにも残っていない。あれほど存在感を放っていた大きな足の跡すらも。


「……にゃあ」


 ふいに、この森にそぐわない甲高い鳴き声が聞こえた。

 いつの間にいたのか、アルヴィナのすぐ傍らに黒い猫が座っていた。整った漆黒の毛並みで、ゆらゆらと尻尾を揺らしている。少女の顔を真っ直ぐと見上げ、その瞳は暗闇の中でも金色に輝いている。

 黒猫はワンピースの裾にすりすりと鼻先を押しつけた。

「君、どこから――」

 言いかけた瞬間、胸元が熱を帯びた。

 どくり、と跳ねる心臓の鼓動に合わせて、視界の隅で白い前髪の先が淡紅に染まる。

「えっ…?」

 両手に、じんじんと疼く痺れ。手を開くとぱちぱちと火花が瞬いた。

(燃えてる……わたしの中で?)

 戸惑いの中、黒猫は歩き出す。まるで導くように、振り返ったその金色の瞳が、『おいで』と告げていた。


 夜明け前、アルヴィナは黒猫とともに村へ戻った。焦げた匂いを纏っての帰還に、夜回りをしていた村の男が目を剥く。

「アル! 結界の護符が光ったときは何事かと……怪我は?」

「平気。――森で、助けてくれるものに会ったの」

 アルヴィナの話を聞き、村長をはじめ大人たちは〝森の主が魔物を祓った〟と解釈し、少女を抱き締めて感謝した。

 だがアルヴィナは語らない。狼の魔物が焼け落ちる音。炎に浮かぶ赤褐色の鱗。獣と思えない知性の宿る金色の瞳。それらすべてを、胸の奥深くに閉じ込めた。


  帰宅後、安心したとたんに睡魔が襲い、アルヴィナは布団に倒れ込んだ。まどろみの中、再び赤い奔流が彼女の脳裏に蘇る。


 〈夢〉

 空を焦がす灼熱の海に、一対の翼をもつ獣が咆哮する。

 焔のうねりは渦となって彼女を飲み込み、心臓ごと熱で溶かす。

 血管という血管に炎が巡り、骨髄まで燃え上がる。しかしそれは痛みではない。解放された歓喜だった。

 ――来い。

 言葉とも轟きともつかぬ声が骨を震わせた。魂の根源に響く呼び声。


「……ッ!」

 跳ね起きた彼女の額は、髪がはりつくほどの汗で濡れていた。風に当たろうと 窓辺に視線を向けると、あの黒猫が窓枠の外に座っている。

(さっきの声……あなたが呼んだの? それとも――ドラゴン?)

 心臓が再び熱を帯びる。掌を握り込むと、そこにはまだ痺れの余韻。

「……見つけなきゃ」

 囁きをひとつすると、猫は軽やかに路地へ跳び去った。

 空の端では雲を裂く朝焼けが燃え、紅蓮の翼の残像を映し出す。アルヴィナの白い髪にも朝焼けがさし、茜色に染まる。

 その姿は、彼女の心で燃え始めた情熱を映すかのようだった。


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▶︎次話『第二話 炎を追う旅立ち』につづく

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