第10話 浸食する真実

 深海の観測基地の岩盤前で、潜水装置の窓の外から放たれた特殊部隊の青白い光線が、間髪入れずに潜水装置の耐圧シェルを直撃した。鈍い衝撃音が響き、装置全体が激しく揺れる。タカシは操縦桿を握りしめ、必死に体勢を立て直そうとするが、岩盤を覆う無数の触手が、潜水装置をまるで獲物のように締め付け、身動きを封じていた。


 「くそっ! こんなところで!」


 タカシが叫んだ。光線が当たった部分の耐圧シェルが、かすかにひび割れる音が聞こえる。このままでは、装置が水圧に耐えきれず、押し潰されてしまうだろう。リツコは、恐怖で顔を青ざめさせ、窓の外にうごめく特殊部隊の姿を見つめていた。彼らの潜水装備は、深海の闇の中でも異様なほどに鮮明に見えた。


 「アキラが……罠だって言ってたのに……!」


 リツコの声は震えていた。彼女の脳裏には、アキラの切羽詰まった警告が蘇る。しかし、彼らはすでに、この深淵の罠に足を踏み入れてしまっていた。


 その時、潜水装置を締め付けていた触手が、一瞬だけ、力を緩めた。同時に、観測基地の岩盤から伸びる触手の一部が、まるで痙攣するかのように不規則に脈動し始めた。その隙を見逃さず、タカシは操縦桿を力強く倒した。潜水装置は、わずかに開いた触手の隙間を縫うように、基地の岩盤へと突進した。


 「何だ!? 奴らが、なぜ……!?」


 特殊部隊のリーダーの声が、通信機越しに響いた。彼の声には、困惑と、わずかな焦りが混じっていた。彼らは、深淵の主の触手が、突然、制御を失ったことに驚いているようだった。


 潜水装置は、岩盤の表面に激しく衝突した。衝突の衝撃で、装置の計器類が警告音を鳴らし、内部に微かな水が滲み出す。しかし、その衝撃で、岩盤の表面を覆っていた触手の一部が剥がれ落ち、その奥に、歪んだ形状のハッチが姿を現した。それは、深淵の主の粘液に覆われ、本来の姿を失っていたが、確かに人工的な構造物だった。


 「ハッチだ! タカシ君、ここから入れるわ!」


 リツコが叫んだ。タカシは、ハッチの開閉システムを解析しようと、急いで潜水装置の操作パネルを叩いた。しかし、システムは深淵の主の粘液によって汚染されており、正常に機能しない。


 その時、リツコのポケットの中で、あの小茄子の芽が、激しく振動し始めた。芽から放たれる青白い光が、潜水装置の内部を照らし、その光が、ハッチの表面に刻まれた奇妙な螺旋状の模様に触れると、模様が微かに発光した。


 『……その光を……ハッチに……』


 アキラの声が、リツコの心に直接響いた。その声は、以前よりも鮮明で、力強かった。アキラが、深淵の主の意識の内部から、直接彼らに干渉しているのだ。


 リツコは、小茄子の芽をハッチの表面へと押し付けた。芽から放たれる青白い光が、ハッチの螺旋状の模様を覆い、模様が激しく脈動し始めた。すると、ハッチの表面に付着していた粘液が、まるで蒸発するかのように消滅し、ハッチがゆっくりと、しかし確実に開いていく。


 「開いたぞ! アキラが……アキラが助けてくれたんだ!」


 タカシは興奮したように叫んだ。彼らは、開いたハッチの奥へと潜水装置を滑り込ませた。ハッチが閉まる直前、窓の外に、特殊部隊のリーダーの、怒りと困惑に満ちた顔が見えた。


 潜水装置は、ハッチの奥へと進み、やがて、巨大なドックのような空間へと辿り着いた。ドックの内部は、深海の冷たい水で満たされており、周囲には、複雑なパイプやケーブルが張り巡らされている。それは、政府のデータベースで見た観測基地の設計図と酷似していた。しかし、その全てが、深淵の主の粘液と、異常に成長した植物に覆われ、異様な光を放っていた。パイプからは、時折、ブクブクと泡が噴き出し、その泡が破裂するたびに、あの生臭い匂いがさらに強く漂う。空間全体は、緑がかった不気味な光で満たされ、その光が、壁面の粘液を照らし、不気味な影を揺らめかせている。


 潜水装置をドックの床に着底させ、二人は内部へと足を踏み入れた。足元の水は、ひんやりとしており、その奥から、あの生臭い匂いが、さらに強く漂ってくる。水底には、奇妙な形状の岩石が散乱しており、それらの岩石の表面には、まるで生き物のように脈打つ、黒い血管のようなものが張り付いていた。


 「ここが……観測基地……?」


 リツコが呟いた。彼女の心には、アキラの「罠だ」という警告がこだましていた。この場所は、深淵の主の支配下にあり、何が待ち受けているか分からない。彼女の視界の端で、パイプの隙間から、何かが蠢く気配がした。それは、深海の闇に溶け込むような、微かな影だった。


 通路を進むと、巨大な中央制御室へと繋がっていた。制御室の内部は、無数のモニターと、複雑な機械装置で埋め尽くされている。しかし、それらのモニターのほとんどは、深淵の主の粘液に覆われ、奇妙な発光を繰り返している。一部のモニターには、深海の生態系の異常な変化や、深淵の主の活動を示すグラフが表示されており、そのグラフは、深淵の主の「覚醒」が、急速に進行していることを示していた。グラフの数値は、彼らが学院で見た時よりも、はるかに危険なレベルに達している。


 そして、制御室の中央には、巨大なカプセルのようなものが設置されており、そのカプセルの内部には、タカシが探していた「封印装置」が鎮座していた。封印装置は、複雑な機械部品と、奇妙な発光体を組み合わせたもので、その周囲を、深淵の主の触手が絡め取るように覆っていた。触手は、装置の表面に張り付き、まるで装置そのものが深淵の主の一部であるかのように見えた。


 「あれが……封印装置か……!」


 タカシが息を呑んだ。しかし、封印装置の周囲を覆う触手は、以前よりも太く、硬質化しており、その表面には、無数の目が不規則に開閉しているのが確認できた。それは、深淵の主の「覚醒」と共に、封印装置そのものが、深淵の主の一部と化していることを示唆していた。封印装置から放たれる光は、本来の青白い輝きではなく、緑がかった不気味な色に変質していた。


 その時、制御室全体に、微かな「歌声」が響き渡った。それは、甘く、誘惑的な響きを持つが、同時に、底知れぬ冷たさを秘めていた。


 <……よくぞ来ました……。愚かなる人間よ……。その「意志」を……我々に捧げなさい……>


 リツコの全身に、鳥肌が立った。この歌声は、深淵の主が、彼らの心に直接語りかけているかのようだった。彼女は、恐怖で体を震わせたが、同時に、その歌声の奥に、微かな、しかし確かな『アキラの声』が混じっているような気がしてならなかった。


 『……抗え……リツコ……タカシ……。そい姉さんの……意識を……探せ……』


 アキラの声は、以前よりもさらに弱々しく、歌声にかき消されそうになる。しかし、リツコは、それがアキラからの切羽詰まった警告だと理解した。封印装置は、深淵の主の支配下にあり、単純に起動することはできない。そい姉さんの意識を解放し、その力を借りなければならないのだ。


 タカシは、制御室のモニターを凝視していた。彼の頭脳が、この絶望的な状況を打破するための方法を必死に探る。アキラの警告は、彼らにとって重要な情報だった。彼は、封印装置の設計図を脳内で再構築しようと試みるが、目の前の異形な姿と、データベースの設計図との乖離に、混乱を覚えた。


 その時、制御室の奥から、複数の足音が聞こえてきた。それは、特殊部隊の隊員たちの足音だった。彼らは、リツコとタカシがハッチを突破したことに気づき、基地内部へと侵入してきたのだ。彼らの潜水装備は、深海の光を反射し、不気味に輝いている。彼らは、手に特殊な銃器を構え、リツコとタカシに照準を合わせた。


 「くそっ! ここまで追ってきたのか!」


 タカシが叫んだ。彼らは、深海の底で、深淵の主の支配する観測基地の奥深くで、政府の特殊部隊に追い詰められていた。封印装置は目の前にあるが、それを起動する術が見つからない。そして、彼らの背後には、深淵の主の「歌声」が、甘く、しかし執拗に響き渡っていた。


 リツコは、小茄子の芽を強く握りしめた。その芽から放たれる青白い光が、深海の闇の中で、微かな希望の光を放っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る