第9話

 ◇◇◇


 ……なんなの、これは。


 私の身体が、私の意思に反して、わなわなと震えが止まらない。

 たかが平民の料理人が作った、得体の知れないシチューが目の前にある。

 

 ただ、それだけのこと。

 この私、クリムゾン領の絶対支配者であるアリシア・クリムゾンが、たった一本のスプーンすら、まともに持つことができないなんて。


 ありえない。

 断じて、あってはならないことだわ。


 でも、この香り……。

 ああ、駄目。

 

 この、脳の髄を直接、いやらしい指先で撫で回してくるような、甘くて、官能的で、背徳的な香りが、私の理性という名の薄い衣を、一枚、また一枚と、無慈悲に剥ぎ取っていく。


 もう、我慢の限界。

 早く、早くその味を、その液体を、この舌で、私のすべてで、確かめなくては……!


 私は震える指先に全身全霊の意志を集中させ、なんとかスプーンで真紅の液体をすくい上げた。

 そしてそれを、これから裁きを下す罪人を見定めるように、ゆっくりと、私の唇へと運んだ。


 一口目。


 その熱い液体が、私の舌に触れた、その刹那。


「ッ……!?」


 時が、止まった。

 違う。味が、したんじゃない。


 味覚という名の、灼熱の鉄槌が、私の脳天から爪先までを、一瞬で貫いたのだ。


 濃厚すぎる肉の旨味。

 脳が蕩けるほど優しい野菜の甘み。


 そして、今まで知らなかった無数の香辛料が織りなす、複雑で官能的な刺激の嵐……!

 

 それら全てが、今まで私が「美食」と信じてきた、金と権力で塗り固められた空っぽの料理の記憶を、根こそぎ、暴力的に破壊していく。

 情報の大洪水。

 快感の津波。

 

 私の舌の、その粘膜の、細胞の一つ一つが、無理やりこじ開けられ、歓喜の悲鳴をあげているのが分かる。


「あ……ぁぅ……んっ……」


 駄目。声が、甘い吐息が、私のプライドを置き去りにして、唇からこぼれ落ちてしまった。


 なに、これ。

 なに、この、感覚。


 身体の芯が、子宮の奥が、まるでそこに炎を灯されたかのように、内側から熱くなっていく……。


 二口目。


 もう、そこに私の意思はなかった。

 私の腕が、脳が、魂が、生存本能そのものが、次の快楽を、もっと深い刺激を求めて、勝手にスプーンを動かしていた。

 

 再び口に含んだシチューは、一度目よりもさらに深く、さらに熱く、そして、ねっとりと、私の身体の隅々までを、丁寧に、執拗に、蹂躙していく。


「んんぅっ……! ぁ、ああっ……! だめぇ……っ!」


 今度は、熱い痺れが舌から喉を通り、胃に落ち、そしてそこから、熱いマグマのような快感が、全身の血管へと逆流していくのがはっきりと分かった。


 特に、お腹の下の方が……一番、敏感で、柔らかな場所が、きゅうぅっと締め付けられるように熱い。

 

 頬が燃えるように熱い。

 呼吸がどんどん速くなって、浅くなっていく。


 目の前の豪奢な広間の景色が、ぐにゃり、ぐにゃりと歪み始めた。

 

 だめ、だめよ。

 騎士たちが、メイドたちが、あの男が見ている前で、こんな、まるで発情した雌犬のような、はしたない姿……。


 私のプライドが、必死に守り抜いてきた『私』という名の強固な城壁が、たった二口のシチューによって、ガラガラと、音を立てて崩れ落ちていく……!


 三口目。


 もう、どうでもいいわ。

 プライドなんて、領主の威厳なんて、知ったことではない。


 私は、まるで飢えた獣のように、半ば無我夢中で、器に残ったシチューをスプーンでかきこんだ。


 そして、三度目の、最大級の衝撃が、私のすべてを襲った、その時。


「あああああぁぁぁぁぁーーーーーーッッ!!!」


 私は、生まれて初めて、恍惚の絶叫をあげていた。


 理性のタガが、完全に焼き切れた。

 椅子から転げ落ち、冷たい大理石の床の上を、のたうち回る。


 ビクン、ビクンッ、と全身が激しく痙攣し、身体がまるで弓のように、ありえない角度でしなっていく。


 快感の巨大な波が、何度も、何度も、私の身体の中心を突き上げ、貫いていく。

 視界は真っ白に染まり、思考は完全に停止した。


 ただ、私の全てが、この味覚の奔流に、この男が作り出した快楽の渦に、飲み込まれていく。

 もう、何も考えられない。

 

 ただ、ただ、気持ちいい。気持ちいい。気持ちいい、気持ちいい、きもちいい……!


 やがて、嵐のような痙攣の波が、ゆっくりと遠のいていった時、私は床に四つん這いになって、犬のように浅く、荒い息を繰り返していた。

 

「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ……」

 

 汗でびっしょりと濡れた銀髪が頬に張り付き、最高級のシルクで作られたドレスは乱れ、はだけてしまっている。

 でも、そんなことはもう、どうでもよかった。


 私は、器に残ったシチューの最後の一滴まで、もはやスプーンを使うのももどかしく、まるで子猫のように皿に顔を近づけ、ぺろぺろと、舌で綺麗に舐めとっていた。


 そして、完全に空になった皿を見つめながら、私の瞳から、ぽろぽろと、熱い雫がこぼれ落ちた。


 これが、『美味しい』ということなのね。

 これが、本当の『食事』なのね。


 今まで私が食べてきた、どんな高価な料理も、どんな希少な食材も、この一皿の前では、色褪せたただの『餌』でしかなかった。


 私の心は、私の魂は、ずっと飢えていたんだ。

 この温かさを、この幸福を、私は今まで、全く知らずに生きてきた……。


 私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。


 目の前には、あの男――リオンが、私を静かに、感情の読めない瞳で見下ろしている。


 その姿は、もはや私には、神のように見えた。

 私に、本当の『味』を、本当の『快楽』を、そして、本当の『生きる喜び』を教えてくれた、唯一無二の、創造主。


 私は、無意識のうちに、その足元へと、みっともなく這い寄っていた。


「……お願い」


 私の喉から、か細い、そして、どうしようもない渇望に満ちた声が漏れる。


「もっと……お願い、もっと食べさせて……」


 私は、彼の武骨なズボンの裾を、両手で、必死に掴んでいた。


「あなたの、あなたの料理を、もっと……! もっと、たくさん、私の中に、入れて……ください……!」

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