第一部 傷痕の夢 第壱夜 夢の始まり②
秒針の音だけが、空間を占拠していた。
それはただの機械音ではなく、部屋そのものに棲みついた“存在”の呼吸音のようだった。
カーテンも、家具も、影さえも、息を殺していた。
聲にならない何かが、この空間の隅々に潜み、次の音を待っていた。
「うーん………。」
この部屋の主である少女が、
現在時刻は4時を廻ったところ。普段であれば絶対に起きる筈のない時間に目を覚ましたことに、露骨なまでの苛立ちを覚えた。
睡眠を奪われた身体は重く、頭の奥が鈍く疼く。気付けばのども渇いている。
夢の内容は覚えていない。いや、正確には覚えている部分もあるが、なぜあんな夢を見たのか理解に及ばない。
少し汗ばんだ肌に眉を顰め、カーテンから覗く月明りを頼りに窓を開ける。
肌寒い風が、今は心地良い。あんな夢は忘れて、明日はまた元気に学校へ行こう。
汗が引き、ベッドへ戻ろうと視線を動かしたとき。
ふいに、それが視界に入った。
赤。
まるで先ほどから当たり前のようにそこに存在していたかのようなそれは、しかし、白いシーツに丸い染みを作り出していた。
月明りに照らされたそれが目に入った途端、指先に鈍い痛みが走る。
ポタポタと赤い雫を落とす指先は、いつできたのか小さな赤い線が引かれていた。
じっとそれを見つめていると、先ほどの夢の内容が浮かんでくる。
「これが始まりだよ。」
やけにはっきりとした聲で語り掛けられ、「切られた」という確かな感覚と共に感じる痛み。
滴る赤に、心が凍った。
夢の中の刃は、現にも届いていた。
「以上で本日の講義を終了とする。各自レポートに纏めて提出しておくように。」
教諭の一言で教室から張りつめていた空気が消えていく。同時に廊下へと駆け出す者、屋上や中庭へと向う者、それぞれが昼食を摂るため移動していく。
「まひろくん。私たちもご飯食べに行こ?」
「うん、分かった。じゃあ移動しようか。」
基本同じ授業を選択している2人は連れ立っていつもの空教室へと向かう。
道すがら友人達に仲が良すぎることを指摘されるが、お互い慣れたもので適当にあしらっていく。
実のところ、2人が幼馴染であることを知る者は数少ない。
隣同士の家に、偶然にも同じ日の同じ時間に生まれた2人は兄妹のように育ってきた。なにをするにも一緒で、家族ぐるみで何度も旅行にも出かけていたほどである。
いのりが結城姓を名乗っていることもあるが、「同じ日の同じ時間」、ということから、いのりを引き取った際、真尋の両親が「いっそ二卵性の双子ということに」と発言し、それが皆の共通認識となった。
他県からも進学してくる者が後を絶たない星霞学園では、2人の過去を知る者のほうが少ないため、これを信じている者が多い。
それ故に、「いくら兄妹とはいえ仲が良すぎるのではないか」とからかう者もいるのだが、いつもからかわれてきたために慣れてしまった。
空き教室のドアを開け、中に入ると―――。
見知らぬ男女が2人、教室の中心で机を並べて座っていた。
お互いに軽い会釈をし、少し離れた位置に腰を下ろす。
同じ空間に会ったことのない者がいることもあり、自然と小さな声での会話となる。
少し気不味さを感じながら過ごしていると、女性のほうから声をかけられる。
「こんにちは。この学園の学生さんよね?」
「あ、はい。そうです。貴方方は?」
「私達はこの学園のOBよ。用事があって来たんだけど、貴方達のお邪魔しちゃったわね。」
気さくに話しかけてきた女とは対照的に、男のほうはまるでこちらを観察するかのように視線を向けてくる。
少しの警戒心を滲ませながら応対していると、それに気付いたのか女が男を小突く。
「ごめんね。こいつったら、いつも人を観察するくせがついてて。悪気はないの。」
「いえ、なにもないのなら別に…。」
「少し聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
と確認をとる言葉を口にしながらも、応えを待たずに質問をしてくる。
いわく、「夢で襲われたと話している者はいなかったか」、と。
特に心当たりのない真尋といのりは、聞いたことがないことを告げる。
「そう。それならいいわ。また来ることがあるかもしれないから、もしなにか聞いたら私達に教えて。これ連絡先。」
と、やはり応えを待たずに連絡先を渡され、「じゃあね〜」とてを振りながら男を引っ張って去っていく。
「なんだったんだろう、あの人達…。」
「ね…。変な人達だったね。」
教室に残された2人は、嵐の去ったあとの静けさに戸惑いを残した言葉を響かせた。
「気付いたか?」
「気付いたとしても、あなたは顔に出過ぎなのよ。もう少し隠す努力をなさい。」
もうすぐ昼休みも終わろうという時間、生徒が行き交う廊下を歩きながら先ほどの男女が声を潜ませて会話する。
「あの男のほう、確実になにか憑いているぞ。」
「もう少し様子を見ましょう。今回の件があの子達の影響とは限らないわ。慎重に調べるわよ。」
「了解した。」
2人はまるで存在していないかのように、周囲の生徒から認識されることなく、校舎の外へと消えていった―――――。
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