草原(作:一ノ瀬 詩織)
日付:20XX年某月某日
場所:文芸部部室
議題:『草原デッサン発表会』
出席者:一ノ瀬詩織(部長)、二階堂玲(副部長)、三田村宙、四方田萌
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一ノ瀬「さあ、皆の者! 約束の一週間後、ついにこの日が来たわ! 我々が挑むべき、あの、あまりにも有名な、あの風景……。それぞれが、いかなる言葉でその光景を切り取ってきたのか、見せてもらうわ!」
(一ノ瀬、恭しく巻紙のような形にまとめた原稿を胸に抱き、すっくと立ち上がる)
四方田「待ってました! 部長の『草原』! 絶対、壮大な叙事詩になってるに違いないです!」
二階堂「……お手並み拝見と行きましょうか。あの、のっぺりとしたデジタルデータを、どれだけ文学に昇華できたのか、楽しみですよ」
三田村「……言語化された風景データの、提示を要請します」
一ノ瀬「ふふふ、今回は、少し趣向を変えてみたわ。物語や、主観を排し、ただ、そこにある風景そのものを、言葉だけで切り取る。文豪の筆致を我が身に宿し、文章で描く、究極の日本画よ。心して、味わいなさい」
(一ノ瀬、咳払いを一つし、静かで、しかし、どこか張り詰めた声で、朗読を始めた)
***
草原
作:一ノ瀬 詩織
空の青があった。
どこまでも澄み渡り、一点の曇りもない。それは、まるで、深く大きな瑠璃の器を伏せたかのようであった。その青は、決して、人の心を突き放すような冷たさを持たず、かといって、馴れ馴れしく包み込むような暖かさも持たない。ただ、静かに、そこにある。それだけの、絶対的な青であった。
雲が、二、三片、その青に浮かんでいた。刷毛でさっと掃いたような、薄い、白い筋。ちぎった真綿を置いたような、柔らかな、白い塊。それらは、風に流されるでもなく、形を変えるでもなく、まるで、生まれたその瞬間から、永遠にその場所に留まることを運命づけられているかのように、静止していた。その白さは、目に痛いほどではなく、それでいて、はっきりと、空の青との境界を分けていた。
大地には、草の緑があった。
見渡す限り、なだらかな丘が、波のように続いている。その、どこまでも滑らかな起伏を、短い草が、天鵞絨の絨毯のように、隙間なく覆い尽くしていた。その緑は、生命力に満ち、みずみずしい光沢を帯びて、見る者の心を、穏やかにした。草の丈は、驚くほどに、均一に揃っている。まるで、姿の見えぬ、庭師の手によって、丹念に刈り込まれたかのようであった。
丘の稜線は、柔らかな曲線を描いて、空の青と接している。その線は、あまりに滑らかで、人工の美しささえ感じさせた。
光があった。影があった。
右手から差し込む陽光は、丘の斜面を、明るい若草色に輝かせている。対して、丘の左半分は、深い影に沈んでいた。その影は、まるで、緑色の墨を、そっと大地に流したかのように、静かで、落ち着いた色合いを見せている。光と影の境界線は、くっきりと、しかし、どこか柔らかく、大地を二つの世界に分けていた。
静寂があった。
この風景には、音が、一切、存在しなかった。風が草を揺らす音も、虫の羽音も、鳥のさえずりも。ただ、完全な無音だけが、この、青と緑の世界を、支配していた。
道は、ない。人が歩いた痕跡も、獣が通った跡も、どこにも見当たらない。木も、花も、石ころ一つさえも、この、完璧すぎる風景の中には、存在を許されていないようであった。
そこにあるのは、ただ、空と、大地。雲と、草。光と、影。
それだけが、まるで、誰かの、遠い記憶の中の景色のように、ただ、ひっそりと、そこに在った。
***
(一ノ瀬、朗読を終え、目を閉じ、その余韻に浸っている。やりきった、という満足げな表情だ)
一ノ瀬「……どう、かしら。主観を交えず、ただ、そこにある風景の持つ、その、もの悲しいまでの美しさを、言葉だけで写し取ってみたのだけど。これぞ、デッサンの極致と言えるのではないかしら」
(しかし、その難解な試みに、他の部員たちは、少し、戸惑っているようであった)
四方田「う、うーん……。言葉の一つひとつが、すっごく綺麗なのは、分かるんですけど……。なんていうか……。だから、何、なんですか……? 人が、誰も、出てこない……。物語が、始まらない……。こんなに綺麗な場所に、誰もいないなんて、もったいなくないですか? これじゃあ、感情移入のしようがなくて、私の、この、エモを感知するセンサーが、全然、反応しません……!」
三田村「……観測完了。対象オブジェクト『草原』の、構成要素、色彩情報、光線状態を、極めて高い解像度で、言語データへと変換している。主観的ノイズを極限まで排した、純粋な描写。手法としては、評価します。……ですが、これは、文学ではありません。高性能なプリンターで出力された、ただの、仕様書です」
一ノ瀬「し、仕様書ですって!?」
二階堂「……そうね。三田村さんの言う通りだわ。描写の技術、文体の模倣。その、テクニックだけを見れば、確かに、素晴らしいものよ。その点は、素直に、感心するわ。……でも、部長。これは、物語ではない。ただの、言葉の羅列よ」
一ノ瀬「言葉の、羅列……!?」
二階堂「ええ。文学とは、そこに人間の心が描かれて、初めて意味を持つものじゃないかしら。この作品には、それがない。ただ、美しいだけの、空っぽの箱。ミステリーで言えば、完璧なアリバイだけが延々と語られて、肝心の、犯人も、動機も、トリックも、何も出てこないようなものよ。……デッサンとしては、百点満点。でも、文芸作品としては、零点。私は、そう評価するわ」
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